ep.08 陽キャの姉と、陰キャの弟
課題と水泳の自主練を繰り返しているうちに、ゴールデンウィークは後半に突入していた。
夜、自室のベッドに寝転がっていた春希の胸元で、スマートフォンが短い振動を連続させた。画面にポップアップした名前を見て、春希は顔をしかめる。
「げ……姉ちゃん」
送り主は、八つ年の離れた姉の夏美だ。
すでに実家を出ており、今は都内でフリーのヘアメイクやスタイリストとして働いている。
ロックを解除してトーク画面を開くと、緑色の吹き出しが一方的に画面を埋め尽くしていた。
『あんた明日ヒマ?』
『リビングのテーブルに私の13インチのiPad置きっぱなしになってない?』
『それ持って、明日の昼までに渋谷のスタジオに来て!』
『言っとくけどスマホの画面じゃメイクの細かい色味見えないの! モデルに説明もできないし!』
『交通費と昼飯代も出すから!』
「……逆ギレしてんなよ。ってか決定事項かよ」
画面をスクロールしながら、春希は大きく息を吐き出した。
悔しいことに、明日の予定は空いている。
「昼奢ってくれるなら、ついでに買い物しに行くかな」
春希はベッドから身を起こし、部屋の隅にあるタンスの引き出しを開けた。
部活のプール開きに向けて、そろそろ練習用の水着や劣化したゴーグルを新調しなければと考えていたところだ。
その時、手元の画面が再び明るくなった。
また姉からの追撃かと思って覗き込むと、雪だった。
『春希、明日は部活だっけ?』
春希は引き出しを閉め、文字を打つ。
『いや、姉ちゃんのパシリで渋谷。ついでに部活の買い物しよっかなと思ってたところ』
数秒後に返ってきた言葉は、予想外のものだった。
『渋谷かぁ。行ってみたいな』
「行ったことないのか……? 渋谷」
春希は小さく呟いた。
引っ越してきたとは聞いていたが、以前は遠い地方にでも住んでいたのだろうか。
『一緒に来る? 人混みと、うちの姉ちゃんがいるのが平気なら』
画面にすぐ「既読」の文字がつく。
『バイト代入ったから、僕も服買いたいと思ってたの。持ってるシャツがちっちゃくなっちゃって。春希のお姉さん、会ってみたいな』
「……バイト……そっ、か……」
春希の指先が、画面の上で止まる。
少しだけ迷って、返信を打つ。
『姉ちゃんが昼飯奢ってくれるっていうから、付き合ってよ』
送信した途端、雪から両手を上げて喜ぶキャラクターのスタンプが返ってきた。
春希は待ち合わせの場所と時間を送ってから、夏美とのトーク画面に戻り、通話ボタンをタップした。五回目のコール音の途中で、通話が繋がる。
『春希〜!? 明日来てくれるわよね!?』
スピーカー越しに、人の話し声やドライヤーのようなモーター音が騒がしく聞こえてくる。その喧騒を押し退けるように、夏美が声を張り上げていた。
「友達もつれてっていい? 昼飯二人分、奢ってくれるなら行く」
回線の向こうで、はっ、と息を呑む音がした。
『春希……あんた、友達なんていたの!? 何よ〜高校生活、青春してんじゃーん!』
「悪かったな、ぼっちで」
『友達と遊ぶのはいいけど、あんた将来どうすんの? 二年で文理選択あるでしょ。パパの事務所継ぐなら理系一択だけど』
いきなり進路の話へと切り替わり、春希はスマホを耳から少し遠ざけて片目をすがめた。
「まだ……決めたわけじゃない」
スマホを耳に当てたまま、ベッドに再び転がる。
天井を仰ぎながら、声のトーンを落とした。
姉の夏美は昔から、せっかちに見えるほど決断が早くて行動力がある。
中学生の頃から「将来は美容の仕事をする」と決め、高校の三年間をその準備に費やした。卒業と同時に実家を出て専門学校へ進み、厳しいアシスタント修行を経てフリーとして独立し、今は多方面を飛び回っている。
ただなんとなく日々をやり過ごしている今の自分とは、完全に真逆の生き方だ。
回線の向こうで、これみよがしなため息がした。
『甘いわね。よっぽど「これだ!」ってことがないなら、とりあえずレールに乗っとくのも賢い手よ』
「レールって言われると、なんかムカつくな……」
『安定は悪いことじゃないわよ。とりあえず今は見えている道を歩きながら、周りを見渡してみてもいいんじゃない?』
「……なるほど」
悔しいが、夏美の例えがすんなりと胸に落ちてきた。
『ま。もうちょっと悩んでみなさいな、若者よ』
「うるせえ。明日、ちゃんと奢れよ――あ、そうだ、姉ちゃん」
『ん?』
「明日連れてくやつなんだけど」
『友達のこと?』
「ちょっと、色々あって……。見りゃわかると思うけど、見た目をいじったり、モデルやれば、とか絶対言うなよ」
『は? なによそれ』
「じゃな!」
春希は赤いボタンを押し、一方的に通話を切る。
急に、部屋が静かになった。
*
翌朝、午前十時。
待ち合わせ場所の、楠原駅の改札前。
予定としては、十一時少し前に渋谷へ到着し、まずはスポーツ用品店で水泳部の練習用水着とゴーグル、陸練用のシューズを買う。
それからスタジオへ向かって夏美と合流し、約束通り昼食を奢ってもらってから、雪の買い物を手伝うという流れだった。
春希が改札へ向かうと、太い柱にもたれて手元のスマホを覗き込んでいる雪の姿がすでに見えた。グレーのパーカーにジーンズ、肩にはキャンバス地のトートバッグという、ふるさと村へ出かけた時と同じ装いだ。
そんなありふれた服装であっても、雪の姿は奇妙なほど人目を惹いた。肌が透けるように白いせいか、そこだけ空間の光を集めているように、雪の輪郭が浮き出て見える。
行き交う人々が、老若男女を問わず、通りすがりに「おや」と僅かに首を向けていく。雪はスマホの液晶に目を落としたまま、前髪を何度も指先で摘んで引っ張り、どうにか目元を隠そうとしていた。
(使ってないキャップとか、持ってきてやれば良かったかな……)
春希はそんなことを思い浮かべてから、芸能人とマネージャーじゃあるまいし、と内心で小さく息を吐いた。
「雪」
春希が声をかけると、弾かれたように顔が上がる。
春希の姿を捉えた瞬間、強張っていた白い頬に、ぱっと赤い色が差した。
「春希」
名前を呼びながら、小走りでこちらへ向かってくる。
「……」
その姿を迎えるほんの一秒の間に、春希の脳裏を妙な雑念が通り過ぎていく。
男児たるもの、こんな風に女子と待ち合わせをするシチュエーションを一度くらいは夢想するものだが、それが違う形で叶ってしまっているような、奇妙な錯覚だった。
周囲から突き刺さる無数の視線が、雪を経由して春希へと流れてくる。
不釣り合いさを測るような空気を肌で感じながら、春希は手にしたスマホで改札を示した。
「行こか」
「うん!」
まとわりつく視線をかき分けるようにして、二人は改札を抜けた。
楠原は急行通過駅だ。
渋谷までは各駅停車で四十分弱の道のりになる。
少しでも人の少ない場所をと考え、春希は最後尾の車両の端の席を選んだ。
それでも、川を渡って都内へと入ると、途端に乗車率は跳ね上がった。
座っている二人の目の前には、吊り革を握る乗客の背中が三重の壁を作っている。雪は始終うつむいたまま、春希のスウェットの袖口に、自分の腕をぴったりとくっつけていた。
渋谷の地下深くのホームに降り立つと、生温かくて重い、地下鉄特有の空気がまとわりついてきた。
頭上にいくつもぶら下がる黄色い案内板を頼りに、春希は幾筋にも交差する動線を辿って、地上を目指す。
雪は電車を降りてからというもの、春希のスウェットの袖を指先で強く握りしめている。迷子になれば二度と戻れないとでも思っているようで、必死だ。
「凄い……外国人が多いんだね」
狭い水中のトンネルを無心で潜り抜けるような息苦しさの中、雪が周囲を見回して小さな声を上げた。聞き慣れない言語が飛び交い、地元では見かけない多国籍な波が渦巻いている。
長い地下道を抜け、ハチ公口から地上へと出た。待ち合わせの定番であるはずの銅像は、背の高い観光客たちの壁に阻まれて、耳すらも見えなかった。
「わ……ここって、スクランブル交差点ってやつ?」
「初めてか?」
「うん……! すごい人がいっぱい」
駅前広場の先に広がる巨大な交差点を見つめ、雪が目を丸くする。
見渡す限り、行き交う人々の八割近くが、スマートフォンやカメラを構えた外国人観光客だ。
春希は信号が変わるのを待つ人の群れの後ろで、雪と共に足を止めた。
「この交差点を渡って、センター街ってところを抜けて、その先にスポーツ用品店がある。姉ちゃんとの待ち合わせも、そっち方面だから」
春希が横断歩道の先を指さすと、雪はそちらへ首を伸ばし、うんうんと頷いた――その時だった。
「――そこの君。ちょっといいかな」
不意に、雪の斜め後ろから声が掛かった。




