ep.27 解禁
十一月中旬。冬が近づく秋の夜、牧野家のリビング。テレビは消され、木目のローテーブルの上で、スマートフォンが青白い光を放っている。
正面の革張りソファの中央には父の冬人が腕を組み、どっしりと腰掛けている。その隣で母の秋子が体を微かに傾け、画面を覗き込んでいた。春希はテーブルの端、フローリングの上に正座している。
スマートフォン画面に表示されていたのは、大手学習塾が配信した模試の速報結果だった。
第一志望 国立工科大学 建築学科 E判定
第二志望 国立大学 理工学部 E判定
第三志望 私立大学 理工学部 E判定
「ま、まあ、でも、まだ始まったばかりですもの! これからよ、これから!」
秋子がパンと手を打って明るい声を上げた。場をとりなそうとする乾いた励ましが、春希の耳には痛い。
「春希」
冬人は組んでいた腕を解き、太い息を鼻から抜いた。
「二年で偏差値を十以上、上げなきゃならん。デッサン試験がある大学もある」
「……」
壁掛け時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。
「やることは山ほどあるぞ。金は出してやる。死ぬ気でやれ」
冬人は低く淡々と言うと、ソファから腰を上げた。書斎へと歩き出し、ドアノブに手をかけたところで、振り返らずに足を止める。
「俺が教えられることは、教えてやる」
扉が閉じられ、ラッチの噛み合う小さな音が鳴った。
「はい」
すでに誰もいない方へ、春希は深く頭を下げた。
母子が残されたリビングで、秋子が慌ただしく立ち上がった。
「春希、おやつ、おやつ食べる?」
小学生を慰めるようなことを言いながら台所の棚を開け、秋子はスナック菓子の袋を取り出す。
「――いらない」
春希は痺れかけた脚を崩し、そのまま腰を上げるとテーブルの上のスマートフォンをひったくるように掴み、振り返らずに二階への階段を駆け上がった。
自室のドアを閉め、明かりもつけないままベッドへ体を投げ出す。喉の奥からせり上がった息が、暗い天井へ向けて吐き出された。
夏の終わりに決意をして、勉強時間を増やした。秋の中間試験では、得意な数学や物理こそそれなりの点数をとることができたが、共通テストの足切りラインギリギリの科目がいくつもある。
仰向けのまま持ち上げたスマートフォンのロックを解除し、雪とのトーク画面を開いた。並んでいるのはとりとめのない話題や連絡事項ばかりだ。
雪は事務所やレッスンの話を口にすることはなく、春希もまた、尋ねないようにしていた。聞かなくとも分かる。文化祭で活躍する姿や、背筋を伸ばして歩くようになった佇まいに、雪の変化は表れていた。
いつも通りの、二人だけの昼食。朝は駅から並んで登校し、部活やレッスンがない日は駅まで一緒に帰る。
けれど――人の目や気配を怖がって、ブレザーの袖やジャケットの裾口を掴んでくることは、もうなくなっていた。
その晩、2ki_daysのタイムラインに新しい投稿が二つ、立て続けに並んだ。
一つ目の写真は、真っ暗な夜空にぽつりと浮かぶ、ぼやけた半月。
添えられたキャプションは、『中途半端 △ #進路』
それに対して返答をするかのように、もう一つの投稿が重なる。
写っているのは、同じように夜空へ浮かぶ半月。
明るい街で撮っているのか、月の周辺に光の粒がいくつも浮かんでいる。
添えられた文字は、『いっしょ * #未熟者』
離れた場所から見上げた同じ月が、2ki_daysに二つ並んで光っていた。
*
数日後の放課後。この日は、雪が日直当番の週だった。
春希と雪、どちらかが日直の日は別々に帰ることにしている。でも今日は例外だ。雪が、朝から「どうしても春希に報告したいことがあるから」と念を押していた。帰りの支度を済ませた春希は、自席で参考書を開きながら雪のあがりを待つ。
「日誌は僕が職員室へ出しておくから、先に帰っていいよ」
黒板を消し終えた雪が、相方の女子生徒へ声をかける。
「ありがとう! じゃあお任せ〜」
と女子生徒が教室を出ていくと、夕暮れ色に包まれた教室は、急に静かになった。
春希が参考書を閉じると、雪が小走りで窓際の席へとやってきた。
「待たせてごめんね」
「いや」
二人は自然と、西日の当たる窓辺に並んで立つ。雪は自分のスマートフォンを取り出した。ロック画面の時計の表示は「15:59」。
「もうちょっとだけ、待っててね」
スマートフォンを両手で包み込むように持ち、雪はじっと画面を見つめている。秒針の音の代わりに、遠くから吹奏楽部のチューニング音が聞こえてきた。
やがて、画面のデジタル時計が「16:00」へと切り替わる。雪が小さく息を吸い込み、春希の目の前へ画面を差し出した。
「今日の十六時からなんだ」
表示されていたのは、白と水色を基調としたウェブサイト――『オフィス・シノミヤ』の公式ホームページだった。「所属タレント」のプロフィール一覧ページ、そこに「遠野雪」の名前があった。
「……あ」
春希は思わず、雪の手からスマートフォンを受け取り、まじまじと見つめた。
そこに、宣材写真が数枚ずつ並んでいる。
柔らかな自然光の中、白いTシャツの上にブルーのパーカーを無造作に羽織り、カメラに向かってはにかむ雪がいる。前髪の隙間から覗く大きな瞳はあどけなさを残しており、等身大の「遠野雪」の魅力が素直に切り取られていた。
そして別のバージョンは、最初の印象を覆す、透明感を極限まで引き出した数枚だった。背景は薄暗いグレー。モノトーンのシンプルなニットを着た雪が、冷たく透明な水底からこちらを見上げるような目で、レンズを見ている。陶器の人形のような美しさが、画面越しに春希の目を刺した。
「これ、どっちも、雪……?」
春希は乾いた唇を舐めた。隣に立つ生身の雪と、画面の中の作り込まれた「遠野雪」を交互に見比べる。
「ど、ど、どう、かな……」
覗き込んでくる雪の顔は、西陽の中でもわかるほど赤かった。
「時間になるまで、誰にも言っちゃいけなかったんだけど……春希には、一番に見てほしくて。あ、それからね、こっちもあって」
春希が黙ったままでいると、雪は照れ隠しのように饒舌になった。春希の手からするりとスマートフォンを取り戻し、別のアプリを立ち上げて、また戻した。差し出された画面に映っていたのは、青い公式認証マークが刻まれた個人SNSアカウントだった。
プロフィール欄はまだ、情報が少ない。『16歳 / 高校一年生 / オフィス・シノミヤ所属』。タイムラインには、先ほどホームページで目にしたばかりの二パターンの宣材写真が、二つに分けて投稿されていた。
その上にもうひとつ、短い動画投稿もある。ほんの十秒ほどの、撮影現場のメイキング映像だ。スタジオの照明を浴びながら、少し斜め上を見つめていた画面の中の雪が、画面外の誰かに声をかけられたように、ハッとレンズを捉える。黒目がちの瞳が恥ずかしそうに細められ、唇の端を持ち上げてふわりと微笑んだ。そこで動画は途切れる。
「うわ……すげ……」
十六時。ちょうど全国の学生たちが放課後を迎え、スマートフォンを手にする時間帯だ。いくつかの流行りのハッシュタグと、『#遠野雪』を辿って流れてきたユーザーたちによって、数字が、見ている間にも膨れ上がっていく。
十六時十分。プロフィール画面のフォロワー数が、五百――2ki_daysのフォロワー数を超えた。なおも右肩上がりに跳ね上がり続ける。
隣の雪は、ただ「どう?」と期待をこめた瞳で春希の横顔をうかがっていた。
「……」
春希は何も返せず、喉の奥が固く詰まった。手の中で目まぐるしく変化していく数字の羅列と、画面の中に鎮座する美しく作り込まれた「遠野雪」の姿を、春希はいつまでも見つめていた。




