誤乗車ありがとうございます。次は――――
この仕事をしていると、厄介な客に当たることがある。
「お客さん、こっち方面で合ってるのかい」
ガタンゴトン。規則的な音は聞く人によれば不快な音だろう。まるで列車が悲鳴を上げているようだ。
老体に鞭打って走らされているから仕方がない。こんなところでも経費節減だ。
そろそろ引退させてくれと嘆く音にかき消されなように、私は声を張り上げた。
「お客さん、聞こえてる!?」
客を一言で表せば怪異だ。女の化け物。長い髪、真っ白な服。
井戸から出てきそうな見た目といえば分かりやすいだろうか。いや、もう分からないか?
向かい合わせのボックス席に、うなだれるように座っていてぴくりとも動かない。
関わりたくない相手だが、仕事上無視することもできない。
「……合ってます」
かすれた声だ。今にも消え入りそうな声。頼むからもっと大声で話してほしい。外がうるさくてかなわない。
「ああ、そう。じゃあ、切符見せてくれる?持ってるよね、切符」
女は微動だにしない。やれやれ、最近の客には困ったものだ。
私がじっと営業スマイルを貼りつけていると、やっとのことで女が動いた。
真っ白なワンピースのポケットから出てきたのは、握りしめたようなボロボロの切符だ。
「お客さーん、頼みますよお。切符は丁寧に扱ってもらわないと」
私の小言にも何の反応もない。やれやれ。
切符を確認すると、案の定その目的地は真逆の方向だった。
「やっぱり、こっちじゃないよお客さん。反対側。列車間違えてるって」
女はそっと手のひらを見せた。真っ白な手。想像よりも若い女のようだ。
その手が急かすように揺れた。どうやら黙って切符を返せとのことらしい。
「あのねえ……」
私が小言を漏らす前に、女が口を開いた。
「ダメですか」
「ん?」
「その切符じゃ、この電車に乗っていたらダメですか」
擦れた声だが、その声にはどこか明確な意思のようなものが宿っている気がした。
——ああ、厄介なタイプだ。
「……ダメなことはないけどさ。いいのかい?せっかくの高額な切符なのに。もう二度と手に入らないと思うよ」
女は黙ってうなずいた。
「そう……それで、何しに行くの?観光って雰囲気じゃなさそうだけど」
「下見です」
「下見……?」
なるほどねえ。
「お客さん、悪いことはいわない。やめときなよ」
女はゆっくりと首を横に振った。
「もう決めてるってことかい。……命を無駄にするな、なんていっても今さら意味ないよねえ」
そこまで言ってから、自分の言葉に苦笑した。
女も初めてクスリと笑った。だが、その笑いが意味するものは、私には分からない。
女は顔を伏せたまま、ポツリポツリと話し出した。
「どうしても、一緒になりたい相手がいるんです。この先に、一緒に行きたいんです。彼も、この列車に乗るはずだったのに……私に勇気がなかったから」
なるほど。だからわざわざボックス席に座っているのか。
本来なら、向かい合わせに座っていたのだろうか。それとも、横並びか。
そこに座っていたであろう男の影を想像し——おっと深入りはやめておこう。客とは適切な距離を保てとこの前も上司に叱られたではないか。
「そうですか。じゃあ交換しますけど……本当にいいんですか?」
女がぽつりとつぶやいた。
「車掌さん、地獄ってどんなところなんでしょうか」
「…………」
さっさと切符を発券し立ち去ればいいのに、どうしてか足が動かない。やれやれ、自分でも難儀な性格だと思う。
「一般的には、天国よりも酷い場所でしょうねえ」
「……もっと具体的なことが知りたいのです」
私は大きくため息を付いた。
「それはもう、地獄ですからね。苦しい、痛い、きつい、絶望、恐怖、後悔——そんな負の感情でしょう。例えば——この列車、ですかね」
女はぴたりと動きを止めたが、その後ゆっくりと頷いた。
「そうですか……安心しました」
新たに発券された切符を女に手渡す。さきほどの券よりも遥かに価値のないそれを。……いや、それは女に失礼だ。
耳障りな悲鳴を上げて、列車が遅くなった。どうやら停車駅が近いらしい。
「では、これで。……次の駅でしばらく停車します」
私が一礼すると、女はうなだれた頭をさらに下げた。足元は白いワンピースに覆われて見えなかった。
女と別れ、またゆっくりと歩きだす。
「おっと、処理しなければ」
こんなもの、この列車内で持っていると上司に見つかったらまた怒られてしまう。
私は女が持っていたその切符を——天国行きの切符を、この世界から消し去った。




