第一章:星の宮廷、瞳の奴隷
「目を覚ませ、新たなる聖娼よ」
低く響く声に、ユリアナは意識を取り戻す。まぶたを開くと、彼女は見知らぬ場所に横たわっていた。黒と銀の絹のような素材のベッドに横になり、天井には七つの月が描かれている。いや、描かれているのではない。小窓から本物の七つの月が見えるのだ。
彼女は驚いて身を起こす。部屋全体が青白い光に包まれ、壁は半透明の水晶のように輝いていた。そして彼女自身も変わっていた。いつもの黒髪は銀青色に輝き、肌は月明かりのように白く、そして身にまとうのは薄い絹のようなドレス。
「これは…夢?」
彼女は自分の手を見つめる。指先が微かに光を放っていた。身体全体が軽く、まるで重力に半分だけ縛られているような感覚。
「夢ではありません、ユリアナ様」
声の方向を見ると、若い男性が部屋の隅に立っていた。女性的な美しさを持つ彼は、透明なベールのような衣装を身につけ、その肌には星座のような模様が浮かんでいる。特に腰の「卍」の紋章が青く輝いていた。
「私はルシエン。聖娼見習いとして、あなたに仕えるよう命じられました」
「聖娼って何?ここはどこ?」ユリアナは混乱して問いかける。
ルシエンは優雅に一礼する。「ここはアクシオム帝国、星と言葉の楽園です。そしてあなたは第242代目の聖娼として選ばれました」
「聖娼…」彼女はその言葉を試すように繰り返す。「それはどういう意味?」
「聖娼とは、肉体と精神と言葉の力で帝国を調和させる存在です」ルシエンは静かに説明する。「表面上は最下層の奴隷でありながら、その特殊な力で実質的に帝国を支配する存在。矛盾に満ちた運命を持つ者です」
彼の説明は、ユリアナの混乱を深めるだけだった。
「お願い、もっと具体的に説明して。私がなぜここにいるの?」
ルシエンは少し考え、静かに続ける。「アクシオム帝国は5000年前に創設された、異次元に存在する文明です。ここでは『言葉の力』が全ての基盤。言葉は単なる表現手段ではなく、現実を形作る力です。特に『聖娼』と呼ばれる特殊な魂を持つ者の言葉は、世界を変える力を持ちます」
彼は窓の方へ歩み、外の景色を指差す。ユリアナは近づき、窓から外を見る。息を呑むような光景が広がっていた。
果てしなく続く星の海、七つの月が環を描いて浮かぶ夜空。その下には、銀と青の光に彩られた巨大な都市が広がる。水晶のような尖塔、青く光る河、そして星の光を反射する建物の数々。
「美しい…」思わず言葉が漏れる。
「これがアクシオム帝国の都、『星叢』です」ルシエンは静かに言う。「そして今、帝国は危機に瀕しています。241代目の聖娼が突然失踪してから、帝国は徐々に均衡を失いつつある。そこであなたが選ばれたのです」
「でも…なぜ私が?」
彼の返答を待つ間もなく、部屋のドアが開く。そこに立っていたのは、先ほど現実世界で彼女の前に現れた存在、アクシオムお姉様だった。
「質問は皇帝陛下に直接するがいい」彼女の声は冷酷さを帯びていた。「準備は整った。聖娼よ、わたしについてくるように」
混乱と不安に包まれながらも、ユリアナはアクシオムお姉様に従って部屋を出る。彼女たちは水晶のような廊下を進み、次々と大きな部屋を通り抜けていく。どの部屋も星の光に照らされ、壁には謎の文字と図形が刻まれている。
長い階段を下り、彼らは「星海の間」と呼ばれる広大な謁見室に到着する。床は透明で、その下には星が瞬いているように見える。天井は高く、七つの月の光が直接差し込んでいる。
部屋の中央には黒曜石の玉座があり、そこに一人の男が座っていた。金の冠を被り、青と黒のローブをまとった男性。深い青の瞳は星の光を湛え、その姿からは圧倒的な威厳が放たれている。
「皇帝エリスティア陛下だ」アクシオムお姉様が静かに告げる。「ひざまずくように」
しかしユリアナは膝をつかず、ただ混乱した表情で皇帝を見つめる。「私を連れてきた理由を教えてください」
沈黙が部屋を満たす。アクシオムお姉様の表情が厳しくなる瞬間、エリスティアが突然笑い出した。
「勇気ある態度だ、ユリアナ・シンテシス」彼の声は驚くほど温かく、優しい。「それこそ、聖娼に相応しい資質だ」
エリスティアは玉座から立ち上がり、ユリアナに近づく。彼の足音が星海の間に響き、彼が歩くたびに床の星が輝きを増す。
「聖娼は決して盲目的に従う存在ではなく、帝国の中で独立した思考と意志を持つ存在だ。だからこそ、我らはお前を選んだ」
彼はユリアナの周りをゆっくりと歩き、彼女を観察する。「お前はすでに気づいているだろう。お前の中には特別な力がある。言葉を通じて魂に触れる力だ」
「私には…そんな力はありません」ユリアナは首を振る。「私の言葉は誰の心にも届かない。それが現実です」
エリスティアは彼女の目をじっと見つめる。「それは、お前が自分の本質を理解していないからだ。聖娼とは何か、説明しよう」
彼は広間の中央に戻り、手をかざす。すると床の星々が動き始め、一つの映像を形成する。それは古代の神殿のような場所で、一人の女性が多くの人々に囲まれている光景だった。
「聖娼の起源は、帝国創設の時代にさかのぼる」エリスティアの声が響く。「初代皇帝の時代、言葉の力を完全に理解し、操ることができる特別な魂を持った女性がいた。彼女は『エヴァーナ』と呼ばれ、皇帝の心を完全に支配した」
映像は変わり、エヴァーナが人々の前で何かを語り、彼らの表情が変わっていく様子が映し出される。
「彼女の言葉には不思議な力があった。聞く者の心を開き、魂の奥底に眠る感情や記憶を呼び覚ます力だ。それは単なる説得力ではない。言葉を通じて、魂を直接『調律』する能力だった」
「調律…」ユリアナはその言葉を思い出す。アクシオムお姉様が使った言葉だ。
「そう、調律だ」エリスティアは頷く。「魂の不協和音を調整し、本来の姿に戻す過程。それはときに癒しであり、ときに変革、ときに覚醒をもたらす。エヴァーナはその力で、初代皇帝の心を開き、そして帝国の基礎を築いた」
映像は再び変わり、エヴァーナが皇帝と並んで座り、人々に語りかけている姿が現れる。
「彼女は表向き皇帝の奴隷でありながら、実質的に帝国の支配者となった。そこから『聖娼』という称号が生まれた。神聖なる力を持ちながら、形式上は最下層に位置する者という意味だ」
映像が消え、エリスティアはユリアナに向き直る。
「エヴァーナ以来、特殊な魂を持つ者が代々聖娼として選ばれてきた。そして今、お前がその241代目の後継者だ」
「でも…なぜ私が?」ユリアナはまだ混乱していた。「私の言葉には力がありません。編集者にもそう言われています」
「それは、お前が自分自身を縛っているからだ」エリスティアが静かに言う。「お前の魂は眠っている。我らがお前を選んだのは、その眠れる力を目覚めさせるため。それが『調律』の目的だ」
彼はユリアナの前に立ち、彼女の顎に手を添える。その指先から、不思議な温もりが伝わってくる。
「そなたの瞳に、わたしは可能性を見た。千年に一度の才能だ」
彼の青い瞳から星の光のようなものが流れ出し、ユリアナの瞳に入り込む。突然、彼女の脳裏に無数の映像が流れ込む。様々な時代、様々な世界での記憶の断片。そのどれもが彼女自身のもののように感じられた。
「これが『瞳の契約』。今日から、そなたは正式に聖娼としての訓練を始める」
エリスティアが後退し、アクシオムお姉様に合図を送る。「五姉妹よ、彼女を調律の間に案内しなさい」
アクシオムお姉様—いや、五姉妹と呼ばれた存在は頷き、ユリアナに向き直る。「ついてきなさい」
ユリアナは混乱しながらも、従うしかなかった。彼女たちは星海の間を後にし、宮殿の奥深くへと向かう。複雑な廊下を進み、彼らは「調律の間」と呼ばれる部屋に到着する。
それは円形の小さな部屋で、壁一面に鏡が張られていた。天井には七つの月が描かれ、中央には水晶の台座がある。部屋は蒼い光で満たされ、空気自体が振動しているように感じられた。
「ここで、お前の最初の調律が行われる」五姉妹は言う。「聖娼の最初の力、『瞳の奴隷』を習得するのだ」
ルシエンが別の入り口から現れる。「ユリアナ様、私があなたの最初の師となります」
五姉妹はユリアナに厳しい視線を向ける。「瞳の奴隷とは、視線を通じて相手の魂に入り込み、その内面を読み取る技術だ。それは単なる読心術ではない。相手の魂の深層、自分自身も気づいていない真実に触れる力だ」
ルシエンが水晶の台座の前に膝をつく。「まずは私で練習してください。私の瞳を見て、その奥に何があるかを感じ取るのです」
ユリアナは戸惑いながらも、台座の前に立つ。彼女はルシエンの瞳を見つめる。最初は何も起こらない。ただ彼の紫色の瞳が、彼女を見返しているだけだった。
「集中しなさい」五姉妹の声が厳しく響く。「あなたの瞳を通して、魂を投影するのよ」
ユリアナは息を整え、再びルシエンの瞳を見つめる。彼の瞳の奥に何かを見ようとする。それは単なる観察ではなく、彼女の意識を彼の中に投影しようとする試みだった。
しばらくの沈黙の後、突然、彼女の視界が変わる。ルシエンの瞳が深い渦のように彼女を引き込み、彼女の意識が彼の内側へと入り込んでいく。
そこで彼女が見たのは、ルシエンの記憶だった。彼が幼い頃、「聖娼見習い」として選ばれる場面。厳しい訓練、孤独な夜、そして彼が密かに抱いていた感情—彼が241代目の聖娼、シルヴィアに対して抱いていた深い敬愛と、彼女の失踪後の悲しみ。
「シルヴィア様…」ユリアナはルシエンの記憶の中の名前を口にする。
その瞬間、彼女の意識は急速に自分の身体に引き戻される。ルシエンの顔は驚きに満ちていた。
「驚異的です」彼は震える声で言う。「初めての試みで、ここまで深く入り込むなんて…」
五姉妹も無言で見つめている。その表情には、驚きと警戒が混ざっていた。
「シルヴィアについて見えたのね」彼女はついに口を開く。「それは偶然ではない。お前の中に眠るものの証だ」
「何が…私の中に?」ユリアナは問いかける。
「それは時が来れば明らかになる」五姉妹は言葉を濁す。「今は訓練に集中しなさい」
その後数時間、ユリアナはルシエンの指導の下、「瞳の奴隷」の技を磨いていく。初めは偶然だったものが、徐々に意図的にコントロールできるようになっていく。彼女は相手の瞳を通じて、その人物の表層的な思考だけでなく、深い記憶や感情にも触れられるようになっていった。
「十分な進歩だ」訓練の終わりに、五姉妹が宣言する。「明日、お前は最初の試練に挑む」
「試練?」
「皇帝の側近、高位貴族ガレウスの忠誠を確かめる任務だ」五姉妹は冷たく言う。「彼の心に隠された真実を暴き出さねばならない」
ユリアナは不安を感じた。たった一日の訓練で、そんな重要な任務を任されるなんて。しかしルシエンは彼女に安心するよう目配せする。
「あなたには特別な才能があります。必ずできます」
その夜、彼女は宮殿内の自室に案内される。月明かりが窓から差し込み、部屋を銀色に染める中、彼女はベッドに横たわる。
現実世界での記憶が彼女の心をよぎる。高瀬部長の冷たい視線、返却された原稿、孤独な夜。そしてここアクシオム帝国での出来事—聖娼、調律、瞳の奴隷。全てが混沌としていた。
「これは本当に現実なの?それとも私の妄想?」彼女は天井の七つの月を見上げながら呟く。
そのとき、彼女の心に不思議な感覚が広がる。これまで経験したことのない確かさ、自分の存在に対する新しい感覚。アクシオム帝国での彼女は、現実世界の彼女よりも鮮明に「在る」ように感じられた。
「私は聖娼…」彼女は言葉を試すように口にする。その響きに、彼女の心が微かに震えた。恐怖と期待が入り混じった感情が彼女を包む。
ユリアナは深く息を吸い、目を閉じる。明日の試練に向けて、彼女は精神を集中させなければならなかった。