揺れ動く心を隠す
ロランは再び、窓から暮れ行く空を見上げた。太陽は街並みに消え紺色の空には青白い星が輝いている。瞼を閉じ、燻り続ける心を整えるように大きく息を吸い込んだ。圧迫されていた気道が一気に広がり、心の内側にある本音が出口を見つけたように押し寄せる。
(ここではない何処かに逃げ出したい、苦しい現実から逃げ出したい。がんじがらめになったこの現実から逃げ出せたらどれほど楽か……)
ロランは唇を結んだ。
だが、どれほど願っても全てを捨てて逃げ出すことは出来ない。そんなことが許される立場では無い。今のロランは簡単に弱音を吐ける立場ではないのだ。
ロランは逃げることのできない現実を諦めるようにゆっくりと息を吐き、夜空に溶け込んでゆく自分を想像した。
(この夜空に溶け込みたい。何もかも忘れこの夜空に沈むことが出来ればこのどうしようもない現実を忘れられる)
シーンとした部屋の中、ベットで眠るシャルロットの寝息が聞こえる。ロランはジゼルの眠る姿を思い出した。ジゼルを見つめながら、いつからかこの美しい夜が続いてほしいと願うようになった。
(ずっと夜のままでいれば、誰にも関わらず、何かを背負うこともなく私が私らしく生きられる。眠るジゼルを見つめているだけで心が解き放たれ自由になれる)
ロランはゆっくりと瞼を開けもう一度夜空を見つめた。
(何事にも心が動かなかった私の心を震わせ、溢れるような感情を思い出させてくれたのはマグノリアの丘とジゼルだけだ)
ロランは大きなため息を吐き、眠るシャルロットを見た。
(ジゼル、私の生きる世界はこんなにも醜い。人と競い人を蹴落とし、自分の利益だけを追求するそんな世界。私の背負っている責任や期待、それを名誉なことだと言いぶら下がろうとする人間、努力をせずおこぼれを待ついやらしい人間、そんな醜い人間たちとジゼルを関わらせたくない。私の生きる世界はあまりにも醜くそんな世界をジゼルには見せたくない)
ロランは眉間に皺を寄せた。ロランを取り巻く環境は目まぐるしく変わる。誰かが誰かを殺したり、陥れたりすることは珍しいことではない。けれど、万が一ジゼルに危険が及ぶことがあったらと思うとロランは冷静でいられる自信は無い。
(もしジゼルが毒を飲まされたら、命の危機に瀕したら、私はこの魔法でジゼルを助けることができない。そんなことが起きたらジゼルは死んでしまう!)
そう考えるだけで、ロランは言いようのない不安に襲われた。
(いやな予感がする)
ロランは両手を握った。突然起きたこの騒動は偶然では無いかもしれない。
(ジゼルに興味を持っていると、ジゼルを愛し始めているとシャルロットが知って毒を飲んだのかも知れない)
そんな考えが頭をよぎる。そう考えるとシャルロットが毒を飲むタイミングは完璧だ。
(屋敷の誰かが買収された?)
しかしそんなことは無いはずだと考え直す。メイドや使用人は入れ替えていない。新しく入った者もいない。だが、一抹の不安が拭えない。なぜなら実際ロランはジゼルを愛し始めているからだ。その現実は変えようのない事実でロランの不安はジゼルを愛する気持ちから発生している。共に過ごしてきた人間を疑いたくないとロランは奥歯を噛み瞼を閉じる。だが、邸宅にシャルロットに買収された人間がいれば、ロランの態度の変化に気がつかないわけが無い。
ロランは意を決し執事のヤニックに使用人達の動向を調査させることにした。
ロランは不安を握りつぶすように両手を握り、ため息を吐いた。ジゼルを追い詰めているシャルロットは天使のような顔をし眠っている。だがその本性は天使ではない。ロランは再び夜空を見つめた。先程と違い不安な気持ちを抱き見上げる夜空は大きな闇にみえる。
(こんな大それたことが出来るシャルロットはそのうちジゼルを殺してしまうかもしれない。考えすぎだと思いたい。だが、シャルロットならやりかねない。そんなことが起きてしまったら私は……)
上気する不安に心が煽られる。心臓は握り潰されるような強い圧迫を感じ、体が小刻みに震え始めた。ジゼルが死んでしまうと考えるだけで立っていられないほどの恐怖と絶望を感じる。そんなことは起きない、考えたくないと拒否するほどに逆に作用し、足元から崩れそうになる。ロランは窓枠を掴み足に力を入れる。しかしその足は宙に浮いているようにグラグラと揺れた。
(ジゼルがこの世界からいなくなってしまうなど……考えたくない!)
ロランは大きな闇にのみ込まれそうになる心を手繰り寄せるように両手を胸に当てた。強い鼓動が手のひらに伝わる。ロランは気持ちを落ち着かせようと両眼を瞑り、恐ろしい考えを頭の中から追い払うよう首を左右に振った。
『……あの時のように全てを壊すのか?』
?!
ロランは目を見開いた。
(ダークネスドラゴン?私に何を言ったのだ?あの時のように?!一体どういう意味なんだ?!)
ロランはゆっくりと瞼を開け生唾を呑んだ。カラカラになった喉が締め付けられ息苦しくなる。
(一体何が言いたいんだ?ダークネスドラゴンは召喚していないのになぜ話しかける?)
ロランの頭の中は混乱している。だが心は違う。ロランの心はその言葉に反応している。
頭の中が真っ暗になるほどの絶望と、腹の底からの怒りが入り混じり、心臓を握りつぶされるような苦しみと悲しみが襲いかかる。
命を捧げても惜しくないほど愛した……を……
思い出したくない!!
ロランの心が、魂が叫んだ。
頭が割れるように痛くなりロランは立っていられなくなった。寄りかかるように窓枠に両手を当て窓ガラスに額をつけた。ヒンヤリとするガラスの冷たさがロランを冷静にする。圧倒的な憎悪に近い気持ちと、取り返しのつかないほどの悲しみは冷たいガラスに吸収され消えた。
(そう、私は思い出したくない何かが……ある)
ロランはベルトランの言葉を思い出した。
『その娘を大切にしなければお前は永遠に後悔することとなる』
その言葉には深い意味があるのだとロランは気がついた。そしてベルトランが何故最初からこうなることがわかっているように話すのか疑問を持った。だが今はジゼルのことを考えねばならない。
ジゼルを守りたいのなら今はジゼルに関わってはいけない。
(私の願いは一つ。ジゼルが生きていてくれたらそれだけで十分だ)
ジゼルが平穏に、誰からも狙われることなく過ごせるのであれば、結婚当初のようにジゼルに接する。ロランがジゼルに興味がないとわかれば誰もジゼルを狙わない。恐らくシャルロットもジゼルを追い詰める事はない。ロランの態度一つで全てが変わるのだ。これこそが注目を浴びるジュベール公爵家、大魔法使いの宿命のようなもの。
(それが今、一番最善な選択かも知れない)
ロランはゆっくりとガラスから離れた。
自分を正当化するために毒まで飲むシャルロットを放っては置けない。彼女の限度を知らない怒りの矛先にジゼルがいてはいけないのだ。
(私の態度がジゼルを悲しませようとも嫌われても、シャルロットが行った悪事の証拠を掴むまではジゼルに冷たく接しなけれならない。それが今で私ができる最善ならばそうするしかない)
ロランは天井を見上げた。
(覚悟がいる。この心を誰にも悟られないように。一部の隙もあってはならない。……マグノリアの丘、私だけの聖域。この心もマグノリアの丘のように誰にも見せることはない。ジゼルを守るため、ジゼルが生きていてくれるだけで、それだけで私は十分なのだから)




