ジゼル・メルシエ
ロランは結婚相手となるジゼルに対し一切興味が湧かず結婚式前日まで名前さえ知らなかった。いや、正しく言えば聞いても記憶に残らなかった。
結婚式前日の昼、ジゼルは一人別邸にやって来た。だがその日ロランは別邸におらずジゼルを出迎えたのは執事のヤニックだけだった。
その日の夜、ヤニックはジゼルの様子を報告するためにロランがいる公爵家に戻った。
ロランは明日から五ヶ月間マグノリアの別邸に住む。その夜はそんなロランを慰めるため集まった一族と会食を行なっていた。会食が終わりロランが部屋に戻るとヤニックが訪ねてきた。
「ロラン様。本日ジゼル様が別邸にいらっしゃいました」
ヤニックはそう言ってロランの顔を見た。ロランがどんな反応を示すかによって、報告の内容を簡単に済ませようと考えていたのだ。
「それで?」
ロランは報告を聞くためにソファーに腰をかけ、ヤニックを見た。ヤニックは意外にロランがリラックスしているように感じ、普通に報告する事を選択した。きっとご一族との会食で気持ちが落ち着かれたのだろう。
「ロラン様、実は気になる事がございまして、」
ヤニックは困ったように表情を浮かべもう一度ロランを見た。
「どうしたのだ?」
ロランは長い髪を耳にかけ、ヤニックに聞いた。
「実は、ジゼル様は歩いて別邸にいらっしゃったようで……」
「まさか、歩いて?何かあったのだろうか?」
ロランは身を乗り出しヤニックに聞いた。
貴族女性が歩いて来るなど、ましてや悪女だと言われ国中で顔を晒されている女が歩いて来るなど信じられないのだ。
ヤニックは何か言いたげな表情を浮かべロランを見ている。
「それについて何か言いたい事があるようだな?遠慮しなくていい」
ロランが声をかけると、ヤニックは濃い霧が晴れたような生き生きとした表情を浮かべ話を続けた。
「ロラン様、私はジゼル様がオラールから歩いてくるなどあり得ないと考えました。確かに顔を隠すように大きなストールと外套を羽織っておりましたが、ジゼル様が馬車に乗ってこなかったのは、わざとではないかと私は思っております。恐らく別邸の近くで下車したのでしょう。そんな見え透いたことをするなどロラン様の同情を引くような行為かもしれませんし、そもそもロラン様が用意した馬車に乗ってこないなど、失礼にも程があります!」
ヤニックは少し感情的になりながら堰を切ったようにジゼルを批判した。
ヤニックはロランが五つの時からずっと支えてきた執事だ。ロランに対する思いも強い。そんなロランの望まぬ結婚を誰よりも残念に思っているのはヤニックだった。
「ヤニックはそう感じたのだな。なるほど。それで?」
ロランはヤニックに優しく微笑みかけ話の続きを促した。ロランはそんなヤニックの気持ちを分かっている。ロランが我慢し受け入れた現実をヤニックが代わりに言葉にしその負担を軽くしようとしてくれている。
「私は、初めてジゼル様を拝見した時に、最初どなたがいらっしゃったのか分からず、どなた様でしょうか?と声かけたところ、ジゼル様は申し訳なさそうな表情を浮かべられ、小さな声で、ジゼル・メルシエと申します。と仰いました。……大変失礼かと思いましたが、まじまじとその姿を見てしまいまして……」
ヤニックは一旦話を止めた。なぜならロランの顔色が変わったからだ。
ロランはヤニックの話を聞き、まじまじと姿を見なければならない程の容姿なのかと一瞬不安に思った。
だが、どうせ離婚する相手だ。どうでも良い。
ロランは片手を上げ、話を促した。
「……ジゼル様はボロボロの小さなカバン一つと、古びたドレスを纏っておりまして、ロラン様が支度金としてお渡ししたお金はどうやら使われていないように感じました。ただ、悪女と言われているお方ですから、それももしかして作戦のようなものかもしれません。ただ、あまりにもロラン様のお相手に相応しくないと……あ、これは失礼いたしました。」
ヤニックは失言をしたとロランに頭を下げた。
ロランはヤニックの報告を受け不可解に思った。
わざわざ古びたドレスを着て?ボロボロのカバン?それに……顔を隠し歩いてきた?
そんな得体の知れぬ女がいるのか?悪女と言われる女がそんな格好で?信じられない。
だが、メルシエ一族は強欲だ。その女も変わらないだろう。そもそも私が別邸にいると計算し、わざと警戒心を解くためにそうしたかもしれない。
下品で教養のかけらもない底辺貴族。最悪だ。
ロランは諦めたようにため息を吐いた。
そんな低俗な家柄の女に愛情が湧く訳がない。ましてや魔力のない人間に興味が湧くはずがない。
だがそう思うと同時になぜか脳裏にベルトランの言葉が浮かぶ。
「お前は必ず魔力の無い娘を愛する」
いや、絶対にそんなこと起こるはずも無い!頭の中で否定をするが、ベルトランのあの言葉がなぜか脳裏にこびりつき離れない。
ロランはその言葉を打ち消すように頭を左右に振り、ヤニックに言った。
「ヤニック、ご苦労だったな。明日から生活が変わる。よろしく頼む」
ヤニックは胸に手を当てロランにお辞儀をし明日からの準備をするために別邸へと戻っていった。
翌日、神殿での結婚式で初めてジゼルに会った。
その日、望まない結婚式だった為一族の出席は無かった。もちろん両親も居ない。その場にいたのはベルトランお祖父様だけだった。
一方メルシエ一族は見るに堪えない下品な装いと態度で神殿に集まっていた。ただ、お祖父様の存在を見て圧倒されたのか大人しくなった。
どうでもいい存在。そんな家門の女も同様だ。
ロランはジゼルをエスコートする為ジゼルが支度をしている部屋を訪ねた。
気が重い。どんな女なんだ?
神官に案内されたロランは部屋の前のドアをノックした。
「どうぞ」
室内にいる神官が返事をし、ロランは部屋に入っていった。
一歩足を踏み入れた瞬間、その部屋を漂う空気の柔らかさに驚いた。瑞々しい花の香りと風にそよぐ草木の心地よい音が聞こえてくるような心地よい空間。この部屋は元々こんな雰囲気だっただろうか?
部屋に案内した神官は窓辺で一人外を眺めていたジゼルに声をかけた。
「ジセル様、ロラン様がいらっしゃいました」
ロランはジゼルに目を向けた。窓からの光が強く逆光でよく見えない。ロランは眩しさに目を細めその後ろ姿を見た。
私はこの女に会ったことがある!
確信に近い既視感を覚えた。得体の知れぬ不安が一気に心に広がる。それが何を意味するのか全くわからない。だが目の前にいるジゼル・メルシエに対しロランの心が反応をしている。胸の鼓動が高まり、息苦しさを感じた。
そしてふと気がついた。この部屋の柔らかい空気はあのマグノリアの丘の雰囲気に似ている。
いや、
この部屋が似ているのではない。
今目の前にいる、窓の外を眺めているこの女が持っているオーラがそう感じさせるのだ。
そうわかった時ロランの体は震え出した。
一体私はどうしたというのだ?!
ロランはコントロールできない心と体の変化にたまらず、「失礼」と言って部屋を出た。
ドアを閉めそれにもたれ掛かり胸を押さえる。
だが、この胸の高まりは収まるどころかさらに激しくなり、ロランの意識がどこかに引っ張られそうになった。
息苦しい!
ロランは目を閉じ心を鎮めるように大きく息を吐いた。ジゼルの後ろ姿を見ただけで、そのオーラを感じただけでなぜこんなに息苦しくなり体が震えるのかロランには全くわからない。
一体私の身に何が起きたのだ?!
ロランは堪らず自分にリラックスの魔法をかけた。
耐え難い胸の鼓動と息苦しさが徐々に落ち着き、体の震えも止まった。
ようやくロランは冷静さを取り戻した。
馬鹿馬鹿しい。あまりの拒否感で現実から逃げたくなっただけだ。
ロランは呼吸を整え改めて部屋に入り、ジゼル・メルシエと初めて向き合った。
目の前には緊張した面持ちでロランに頭を下げるジゼルがいる。
先程と違い目の前のジゼルから何かを感じることはなかった。




