世界でたった一人
その夜もロランは帰ってくる気配がなかった。
きっと明日の新聞はシャルロットと過ごす三日目の朝とでも書いてあるだろう。
ジゼルはベッドに寝転び本を読みながら静かな夜を過ごしていた。庭園から虫の音が聞こえる。静寂の中のその音色は寂しさをより一層深くする。本を閉じ、いつもロランが寝ている場所を見て、誰もいないその場所に手を伸ばす。
こんなに近くにいるのに気が遠くなるほど遠い人。その姿が見えないだけでこれほどまでに寂しく感じるとは、私もずいぶんと贅沢になってしまった。
「ロラン・ジュベール様」
ジゼルはロランの名前を呟いた。
幼いころからの憧れの人。ロラン様だけをずっと見つめていた。
ロラン様が大魔法使いになることを私はどこかで確信していたように思う。
ジゼルは伸ばした手を握った。
掴みたくても掴むことができない人。諦めなくてはいけないと必死に自制していても、心はロラン様を求めてしまう。偽りの優しさを向けられても、冷たくされても、私の心はいつもロラン様に向かっている。
ジゼルは幼い頃のことを思い出した。
物心がつく頃、自分に魔力がないと分かった時から魔法が使える両親を他人のように感じ、幼いながらも両親に心を開くことができなかった。魔法が使えない私の周りだけ見えない壁があり、同じ世界で生きていないように感じた孤独な日々。
そもそも父にも母にも似ていない私は自分の本当の両親は別にいるのではないかと想像していた。いつか本当の家族が迎えにきてくれるかもしれない。そんなことを思いながら、想像しながら部屋の窓から外を眺めていた。誰にも似ていない私を見るたびお前が浮気してできた子供じゃないかと責められ続けた母はその頃に亡くなった。残された私は殺されるかもしくは捨てられるかと思っていた。けれど父は魔力の無い私が将来強い魔法使いと結婚する可能性があると言って私を手放さなかった。
だけれども父との生活は辛いことの連続だった。元々私に対し愛情がない父と、程なく再婚した継母は私を邪魔者のように扱った。二人に子供ができた時私は家から追い出された。邸宅の横にある小さな小屋に住めと言われ乳母と共にひっそりと息を殺し生活していた。ただ、亡くなった母方の乳母は私を実の子のように可愛がってくれていた。それがあったからあの生活に耐えられたのだと思う。
私が七歳になった頃、両親は魔力の無い私が金になると愛情深い両親のふりをし何度も私を神殿に連れて行った。神殿で魔力を測定し魔力がないと言われるたびに飛び上がるほどに喜んだ両親の顔は今でも時々思い出す。そんな両親を見るたびに私はここ以外の何処かに行きたいと願っていた。けれどある日、私を神殿に連れてきた両親は幼い妹と三人で街へと出かけてしまい夕暮れになっても迎えに来なかった。とうとう捨てられてしまったかと押し寄せる不安と孤独に泣いていた私に声をかけてくれた人がいた。
「君、どうしたの?大丈夫?」
泣いていた私は優しい声に顔をあげ目の前にいる王子様のような少年を見て息が止まった。
ロラン・ジュベール様。
天才少年と言われ将来は大魔法使いになると言われていたロラン様を見た瞬間、私はこの人に会うためにこの孤独な世界に来たのだと確信するほど一瞬で心を奪われた。
暗かった世界に光が差し込こむように、ロラン様が私の心に光を与えた。ずっとずっと探していた人にようやく巡り会えたような感覚、私の周りにあった壁が崩れ、ようやくこの世界に受け入れられたような気持ちになった。
ロラン様の優しい眼差しと声に全身の血が沸き立つような強烈な感覚と、心の底から湧き上がる喜びを今でも覚えている。あの日以来私の心はずっとロラン様だけを見つめ追い続けている。
同じ空気の中にいることが奇跡だと思えるほどに。
あの時、運命を感じたと言ったら笑われてしまうかもしれないけれど、それほどまでに私の心に入り込んだたった一人の人。その人が幸せであるならばそれが自分の幸せだと思えるほどに心を捧げた相手。理屈じゃない何かが私をロラン様に惹きつける。
……けれど、偽りの優しさにも笑顔で応えることができるようになってきた今、私の心は揺れ始めた。
幸せを願うだけじゃなく、ロラン様を諦められるように心のあり方を変えていかなきゃいけないのではないかと。
ロラン様は私の気持ちなど要らない。
あの日感じた運命をロラン様も同じように感じたわけではないのだから。
この結婚が終わった後、ロラン様はシャルロット様と結婚する。愛していない元妻のこの思いは邪な気持ちとなっていつかロラン様に迷惑をかけてしまうかもしれない。この想いも消さなければ本当の幸せを願えないのだと思い始めている。
ロラン様とシャルロット様がこの先を見据えて行動している今、私もこの結婚が終わった後を真剣に考えなくてはいけない。
急には無理でも少しずつロラン様を忘れられるように。
一人で生きて行けるように。
ジゼルは体を丸め両手を胸の前で握りしめた。
そう、最初から何一つ持っていない私は、ここを出て行っても失うものなど何もないのだから。




