変わる日常
朝起きるとロランは居なかった。
寝過ごしてしまったと言う自責の念と、なんとなくホッとする気持ちが同時に湧き上がる。
結婚して以来ずっとソファーで寝ていたジゼルに対しロランは何も言わなかった。そんなロランに対し、悲しいと思ったことはない。なぜならジゼルが自主的に選んだことだからだ。
けれど昨夜は違った。怪我を負いソファーで寝ようとするジゼルを見て可哀想に思ったのだろうか?突然の気遣いを言われるがまま受け入れたが緊張のあまり朝焼けが窓辺から差し込む頃まで眠れなかった。けれども、疲れていたせいかその後の記憶は無い。ロランが起きたことにも気付かないほどぐっすりと眠っていたようだ。
起きる気配のないジゼルを見てロランは何を思ったか?図太い女、図々しい女、そう思われても仕方がない。
ジゼルは体を起こしロランが寝ていた場所にそっと手を当てた。ほんの少し温かい。ジゼルが起きる少し前にベッドを出たのだと推測する。そのわずかな温もりに胸が高鳴る。大好きな人が隣で眠っていた。嬉しさと恥ずかしさに口角が上がる。だがふと気がつくとロラン側の布団はジゼルの方に引っ張られていた。血の気が引く。
まさか寝ている間にロラン様の布団を取ってしまった?!信じられない。なんという失態!!
恥ずかしさと申し訳なさが入り混じりジゼルはベッドの上で身を丸くし頭を抱えた。
「痛っ」
額の傷をすっかりと忘れていた。顔をあげ額のガーゼに触れると表面がカサカサとしている。眠っている間に血が滲みそれが乾いたようだ。口の中の傷は痛くない。昨夜飲んだ痛み止めがよく効いている。
ジゼルは布団を直し大きなため息をついた。
今日はソファーで寝てくれというかもしれない。いえ、その前にここから出ていってくれというかもしれない。昨夜は喜びと緊張で自分の立場を忘れかけていたけれど、ロラン様はシャルロット様を愛している。それを心に刻んでおかなければ起こりもしない期待を抱いてしまう。ロラン様の一言に一喜一憂する私は本当に愚か者だわ。
ジゼルはベッドから出て着替えるために部屋を出ようとした。
「ジゼル様おはようございます。昨夜は眠れましたか?」ドアの向こうでエミリーが声をかけてきた。
「おはようエミリー、ロラン様はどちらに?もう出かけてしまったのかしら?」
ドアを開け着替えを持つエミリーに聞いた。
「はい、ロラン様は先ほどお出かけになりました。あ、今日から私がジゼル様のお世話をさせていただくことになりました」
エミリーはそう言って着替えの洋服をジゼルに見せる。
「え?私は今まで通り自分でできるわ。エミリーは他の仕事があるでしょうから気にしないで」
ジゼルはエミリーから洋服を取りあげ着替えようとした。その様子を見てエミリーは慌てて洋服を奪い返しポカンとするジゼルの前に立ち頭を下げ言った。
「ジゼル様、これはロラン様から仰せつかった私の大切な仕事です。今朝ロラン様は私をジゼル様のお付きに指名してくださいました。どうぞよろしくお願いいたします」
エミリーはそう言うと呆気に取られるジゼルの寝巻きを脱がせ傷に触らぬよう丁寧に洋服を着せた。テキパキと動くエミリーに体を任せながらロランの言葉に驚きを隠せない。
ロラン様がそう仰ったの?私を追い出すことをせずに世話をしろと?!
エミリーは手際よくジゼルの身支度をし、額のガーゼを取り替え和かな笑顔をジゼルに向け言った。
「ジゼル様、ロラン様より伝言がございます。今日はゆっくりと過ごすようにと仰せになりました」
エミリーは良かったですね!と言うように明るく笑い颯爽と部屋を出ていった。
え?出ていけじゃなくて?ゆっくり過ごせ?
ジゼルはソファーに腰をかけこの待遇に戸惑った。
一体何が起きたのだろう?
ジゼルは全く思い当たらぬロランの変貌に気持ちが落ち着かなくなった。だが、ベッド同様、昨日怪我をしたジゼルを可哀想に思い、待遇を変えてくれたのかもしれない。そう思うと徐々に気持ちが落ち着き、普段どおり過ごそうと立ち上がった。
ジゼルはいつものように庭の手入れをし、テラスに座って景色を眺めていた。そこにメイドや使用人達が集まり、怪我は大丈夫か、何か欲しいものはあるか、食べたいものはあるか?など聞いてきた。その顔は心配と優しさに溢れジゼルの周りをあたたかく包む。彼らの変化にジゼルの気持ちは喜びに満ち溢れようやく居場所を得た気がした。
ずっと一人で過ごしていたジゼルはこうして誰かと会話できる日が来るとは思いもよらず、ただひたすらにこの状況に感謝した。ロランと結婚し、ジゼルが得たものは一つだけある。それは周りから与えてもらった見返りのない優しい気持ち。形のないその気持ちはジゼルにとってかけがえのない宝となった。
ロランは夕方に帰ってきた。仕事だったのかどこかに出かけていたのかわからないが、出迎えたジゼルを見てメッセージカードを取り出し言った。
「お祖父様からだ」
ジゼルがメッセージを受け取ろうとロランに近づいた時、ロランから微かにシャルロットの香りがした。ただ前ほど強く無い残り香だが、それでもジゼルの心を冷やすに十分な効果があった。
「ありがとうございます」
揺れ動く心を隠しメッセージを受け取る。嬉しいことと悲しいことが同時に起きると悲しみが勝る。何故喜びだけを味わわせてくれないのか?そう思いつつもこの感情はロランには関係のないこと。シャルロットの存在はこの結婚が決まった時から知っていたことで、初日にロランから愛している人がいると、はっきりと言われた。
ロランに気付かれないよう微笑みを浮かべながら奥歯を噛む。悲しみを顔に出さぬようメッセージカードに視線を移し俯いた。
ロランは外套をメイドに預けそのまま執務室に入って行った。ジゼルは沈んだ気持ちを抱えたまま部屋に戻りベルトランからのメッセージを読んだ。
「ジゼル、傷の具合はどうだ?痛みは?ロランからジゼルの様子を聞いた。昨夜は眠れなかったようだな。ジゼル、つらい時は一人で我慢するな。お前を大切に思っている人間がいることを忘れるなよ」
ベルトランの温かい言葉に波立った気持ちが穏やかに変わる。心配してくれる人がいる。いつもここぞと言う時に助けてくれるベルトラン。
ベルトラン様、ありがとうございます。
ジゼルは整えられたベッドを見た。昨夜ロランも眠れなかったのだ。ジゼルは立ち上がりロランが使っている枕に触れた。ロラン様ごめんなさい。今日はソファーで眠ります。
夕食の準備ができたとエミリーが迎えにきた。
ロランも執務室から現れ、共にテーブルに着いた。
目の前には作りたての温かい料理がある。それも魔法の料理ではなく人の温かさを感じる料理だ。
ロランもそれに気がついたが、何も言わずいつも通り食事をし、執務室に行ってしまった。食事中これといって会話することはなかったが、会話のない時間も今までと違い不思議と居心地が良かった。
食事を終えたジゼルはキッチンに行き、片付けをしている料理長に礼を言った。料理長は濡れた手をエプロンで拭きながら少し恥ずかしそうに微笑み言った。
「大切なことを思い出しました」
ジゼルは優しく頷き、キッチンを出た。
温かい食事、魔法ではなく手間をかけた料理、それをいただけることの喜びは全てロランのお陰だ。ロランがジゼルを追い出さず、我慢し一緒に生活をしてくれているから、こんなに素晴らしい変化が起きた。
ジゼルは喜びを胸に部屋に戻った。その夜、ソファーで寝ようとしたジゼルの腕を引っ張りベッドで寝かせたロラン。
それ以来ジゼルがソファーで眠ることは無くなった。




