気まずい時間
ロランは黙って治療の様子を見つめていた。燃えるような瞳は鳴りを潜め、感情を抑え込んだ微かに揺れる青い瞳。ジゼルは額を縫う医者の腕の隙間からロランを見つめ続けた。
今朝手伝ってくれた若いメイドは医者の手伝いをしながら泣いていた。その理由は今朝送り出したジゼルが大怪我を負って帰ってきたからだ。
心配していたことが現実になってしまった。優しいジゼル様がなぜ……。
ジゼルは涙を流すメイドに囁くような声で話しかけた。
「泣かなくてもいいのよ。私は大丈夫だから」
メイドは涙をぬぐい掠れた声で「ハイ」と頷いた。
治療の間、傷の痛みは感じなかった。先程のロランの言葉は麻酔よりも効果がある。些細な一言でもジゼルの気持ちを変えてしまう力。これが恋心なのだろう。
だが、同時に申し訳ない気持ちが波紋のように心に広がる。怪我をした理由はさておき、ロランに多大な迷惑をかけた。
騒ぎを起こし、仲良くお茶会に参加していた二人をこんな形で引き離してしまった。
立場上、血を流す妻をそのまま無視することもできず連れ帰ってくれたロラン。
それに甘えるなど言語道断だ。
ジゼルは唇を噛んだ。
優しい言葉をかけていただいたからと言って、ロラン様の気持ちが変わった訳じゃない。それを喜ぶなど愚かな私。優しさに付け込むかのような、そんな私を見てやはり悪女だと確信したかもしれない。
ジゼルは深いため息を吐いた。
「!!」
額の傷ばかりに気を取られ、すっかりと忘れていた舌の傷が痛んだ。体がブルッと震える。例えるなら口の中にナイフを突き立てられたような容赦のない鋭い痛み。鳥肌が立ち思わず口元を手で覆った。
「……口の中も診てくれ」
その様子を見ていたロランは医者に言った。
「ああ、舌を噛まれたようですね。これは自然に治すより方法がありません。刺激物を避け過度な運動も避けてください。乗馬などは厳禁です」そう言ってジゼルに痛み止めを飲ませた。これで終わりかと思った時に医者がジゼルに言った。
「ジゼル様、背中をぶつけられました?あ、いや転んだ時は前面でしたね。うーん、強く押されたか誤って踏まれたか……」
ジゼルはその質問に驚いた。どう答えたら良いのか全くわからない。だが、蹴られた時の衝撃を思い出すと体が萎縮し、目の奥が悲しみで熱くなる。しかし、ロランに知られたくない。すぐに俯き顔を隠した。ロランの前で蹴られたと言えばことの成り行きを説明しなければならない。ジゼルの受けた仕打ちは全てシャルロットが絡んでいる。ただシャルロットはジゼルに寛容な態度を取っていた。どう説明すれば良いのか全くわからない。
それに本当のことを言ってロランが信じてくれる確率は低い。だから真実を話さないことが最善なのだ。
ジゼルは両手を握り、黙って首を振った。
「……左様ですか。私の気のせいでしょう。ただ、転んだ痛みもあるでしょうから、この貼り薬を置いて行きます」
医者はジゼルの様子を見てそれ以上何も言わなかった。
ジゼルは血で汚れた両手を見つめた。
額に貼られた大きな白いガーゼ、傷は髪の生え際からこめかみまであり長い前髪で隠すことはできる。ショックな気持ちはあるが、それ以上に傷ついたことはこれほどまでに世間から憎まれているという現実だった。
今回偶然にも別邸の近くに医者がいたことで、大事には至らなかったが、一人だったら治療もしてもらえず死んでしまう。この後、ここを出て一人歩いて神殿に行くなど自殺行為だ。世間のジゼルへの憎しみは薄れることなく逆に増すばかりだとわかった。毎週送られてくる新聞の切り抜きを見てわかっていたが、身を以て経験するとその衝撃は生きる気力を失わせる。
これからどうしよう……。
俯き黙っているジゼルに医者は声をかけた。
「ジゼル様、今日は安静になさって下さい。傷は一週間もすればくっ付くでしょう。しかし残念なことですが、傷跡が残ります。……痛み止めはこちらを煎じてお飲み下さい、後、……何かあれば私をお訪ねくださいませ」
ジゼルは顔を上げ医者に礼を言った。
「ありがとうございました。それに、お心遣いにも感謝いたします」ジセルは医者に微笑みかけゆっくりと頭を下げた。
背中を蹴られたと言わなくても気がついたお医者様。なぜ気がついたのかと聞いてみたい。いつかまた話す機会があったら……。
ジゼルは偶然にも素晴らしい医者に出会えたことに心から感謝した。
治療が終わり医者は帰って行った。
医者を見送ったロランは片付けをする若いメイドに声をかけた。
「エミリー、汚れたドレスを着替えさせろ」
エミリーはジゼルに笑いかけた。治療が終わりホッとしたような笑顔。ジゼルも目を細めエミリーはジゼルを支えながらゆっくりと歩き出した。部屋を出る前にジゼルは立ち止まりロランに挨拶をしようと振り返った。
ロランはジゼルに背を向けて窓辺で外を眺めている。
「あの、ロラン様、」ジゼルはロランの背中を見つめ声をかけた。
「……血と涙で汚れた顔は見たくない」
ロランは言った。その声は低く、怒りを押し殺しているように聞こえた。
冷や水を浴びたように心が冷える。
やはりロランは怒っていた。どう謝れば良いのかわからない。謝ってもロランの怒りを鎮めることはできないのかもしれない。
ジゼルは涙を堪え静かに部屋を出ていった。
部屋を出てすぐにエミリーは泣き出しそうな笑顔を見せジゼルの手を握った。その手の温かさに冷えた心が溶けてゆく。今までは一人で耐えていたが、今こうして自分の為に泣いてくれ、寄り添ってくれる人がいる。「ありがとう」ジゼルはエミリーの手を握り返した。
着替えている間、ジゼルはこれからの事を考えていた。
ロラン様に許してもらえなくてもきちんと向かい合ってお詫びをして…ここを出ると伝えて、神殿まで馬車を貸りて、それから、それから……どうしたら良いのだろう。
ドレスを着替え、血で汚れた顔や手を拭きジゼルは部屋に戻ってきた。おそらくロランは公爵家に戻りここにはいないだろう。なぜならシャルロットがロランの帰りを待っている。
ジゼルはエミリーに温かいお茶を頼み部屋に入った。
ドアを開けるとロランは部屋にいた。窓辺からソファーに移動し腰掛けた状態でジゼルを見ている。
「ロラン様?!申し訳ありません。いらっしゃらないかと…」
ジゼルが慌てるとロランは向かいのソファーを指差し言った。
「いいから座れ」
ジゼルは緊張しながらテーブルを挟んでロランの目の前に座った。
ロランと二人きりになった。
改めて謝りたくても先程のように無言で返されたらと考えるとその圧に耐えられる気力がない。目まぐるしい一日。こんな悲惨な結果になるとは思いもよらなかった。
だが、いないと思ったロランがまだ居る。なぜ?と思いを巡らすが、話があるからだと理解した。きっと今日の失態を怒られるのだと覚悟した。ロランの怒りを全て受け止め、謝り、ここを出てゆくと伝えよう。
ジゼルは気持ちを固めロランを見た。
ロランもジゼルを見ている。ロランは襟元のボタンを外しながらジゼルをじっと見つめている。
気まずい。そんなに見つめられると話を切り出しづらい。どうしたら良いのだろう……。
ジゼルは膝の上で重ねた両手をさすりながらタイミングを見計らっていた。
「ジゼル様!!」
突然扉が勢い良く開きお茶を持ったエミリーと今朝支度をしてくれたメイド達が涙を浮かべながら部屋に入って来た。が、ロランがいることに気がつき慌てて出て行った。おそらくメイド達もロランは公爵家に戻っていると思ったのだろう。
ロランは首を傾け慌てて出てゆくメイド達の後ろ姿を見て言った。
「屋敷の者と仲良くなったのか?」




