第95話 第7章「森の中へ」その10
「まったく上手くなったものだな…」
雪音は手綱を操り、風切丸を足踏みさせるようにして一刹のほうに向けた。
「この子のおかげよ」
と言いながら愛馬の首を愛おし気に撫ぜる。
風切丸はいつもそれをされると心底嬉しそうにヒヒン、と頭を上げて一声いななくのだった。
それを見た一刹は思わず笑ってしまう。
笑いながらどうか一人娘がこの技を実際に使うようなことがありませんように、と心の中で祈るのだった。
そんな一刹に小走りで近づいて来る初老の男がいる。
側近の賀屋禄郎である。
禄郎は一刹の傍まで来ると耳打ちするように言った。
「一刹さま。先ほど堅柳宗次さまと佐之雄勘治殿がお忍びの市中散歩から戻られまして。それでできれば今すぐにも話し合いたいことがあると仰せなのです」
「ほう?」
一刹はわずかに首を傾げた。
「一体どういう用件かはわからんが、どうやら急いでおられているようだな。ほら、お二方からこちらに出向いて来られている」
禄郎が一刹の見る方向を振り返ると、石壁の切れ目のような馬場の入り口を抜けて宗次と勘治が歩いて来るところだった。
禄郎はあわてて一礼すると、
「会議の間でお待ち頂けましたらこちらから出向きましたものを」
と二人に声をかけた。
「お心遣いは痛み入るが、ここで結構」
近付きながら宗次は禄郎に言葉を返した。
宗次の少し後ろを歩く勘治は一旦立ち止まり、深々と礼をする。
離れたところで雪音は風切丸から降り、そのまま手綱を引いて父親のほうに歩いて来た。
宗次がちらりと雪音を見やる。
雪音はなにか不穏なものを感じて一瞬身震いした。
一刹は二人に会釈を返しながら、
「禄郎から聞きましたが、急ぎの話というのは何なのですかな?」
と尋ねた。
「先ほど非公式ではありますが、王府に属する者から情報を得たのです」
宗次は答えた。
「非公式に?北練井の市中で、ですか?」
一刹が意外そうな顔をして尋ねると宗次はただうなずいた。
宗次のそれ以上のことは言いたくなさそうな空気を感じ、一刹は忍なのだな、と察する。
「で、その者は何と?」
一刹がきくと宗次は答えた。
「北方侵攻軍の本隊が王都を出発したそうです」
「ほう…して、その規模は御存知ですか?」
「兵員はおよそ三万人とのこと」
「それは…予定通りの大規模侵攻となりますな」
「いや、予定より小規模となります。一万人以上少ない」
宗次は首を振りながら答えた。
「というのも、当初予定に無かった真叡教斎恩派の僧団が同行するためとのこと」
「斎恩派?」
一刹は眉をひそめた。
「成錬派を信奉される北部諸侯にとっては穏やかな話ではないでしょうな」
宗次は言った。
「正直、私は宗教には大して興味も無いので詳しい話も聞きませんでしたが。なんでも五百人を超えるような大僧団で、現教主の明擁様と総麗王が直々に関わる計画だとか。此度の侵攻計画に相乗りするかたちでこの北部を一気に斎恩派の地へと戻す教団の思惑があるようですな」
自分で言いながら宗次はどうしても苦々しい口調となるのがわかった。
俺は此度の北方侵攻に人生全てを賭けるぐらいの覚悟でここまで来ている。
それなのに王府や教団の連中は…、
宗次の心中にそんな思いが走ったとき、一刹が口を開いた。
「わたしたち鈴之緒家は代々北方鎮守府の統括を任されてきました」
一刹が不意に改まった口調で話し始め、宗次は少し意外そうな表情になってその北方鎮守府大将の顔を見た。
「王府の本心はわかりませんが、少なくとも我ら北部の人間にとっては北方鎮守府とは文字通り北部の防衛を司るところなのです。堅柳家の方の想いと相違があればそれは遺憾なことですが、北方侵攻の拠点とは捉えていないのです。だからこそ数百年の長きにわたってここ、北方鎮守府も北練井も維持されてきたのです」
宗次はなおもおや?とでも言いたそうな意外そうな顔で聞いていた。
ここにきて鈴之緒一刹がいきなり本音を語り始めている。
思えば今まで宗次は一刹に北方侵攻のことは語っても真叡教斎恩派と成錬派の確執のことなど一言も触れなかった。
興味が無かったからである。
それが斎恩派の僧団が来ると言っただけで一刹がこれだけ本心を吐露し始めている。
宗教とは鈴之緒一刹であろうともかように心を揺り動かすものなのだな、と他人事の宗次は思った。
「しかしそれが王府の意志というなら、」
一刹は続けた。
後ろで手綱を持ち、風切丸を撫でながら娘の雪音が心配そうに父親を見ている。
「北方侵攻への支援は職務として全力で致しましょう。あなたの父親にしたように。いろいろおっしゃりたいことがあるのはわかりますが、当時も我々は全力で王府の意向に尽くしてきたのです」
「わかっております」
言いたいことが喉元まで上がってくるのを感じながら宗次は押し殺した声で応えた。
「ただ北方の蛮族の全容がわからない現状で全力で軍務に集中しなければならない今、同時にわれら北部の民の改宗を進めようとするのは理解しかねるのです」
一刹の口調はいつものように丁重であったが、宗次にははじめて彼が王府に対する嫌悪感を吐露したように聞こえた。
そしてその強さに驚いた。
これが北部諸侯の皆に通底する想いなら…
厄介なことになる。
宗次はそう感じながら答えた。
「その点に関してはわたしも全く同意見なのです」
珍しいことに、と心の中で言いながら宗次は続けた。
「ですから王府や真叡教団にわれわれの本来の目的を強く意識させる必要があります。ですから…」
間を取った宗次を一刹と雪音が不安そうに見つめる。
宗次は言った。
「まず予定より早く北の大門につくられた阻壁を撤去すること。それとまずわたくしが北の大橋を超え、北方に足を踏み入れ、その実態を確かめて参りましょう」
一刹が、
「あなたご自身が、ということですかな?」
と驚いた表情をしている。




