第89話 第7章「森の中へ」その4
ともに列島世界の旅をしてくださっているみなさま、本当にありがとうございます。
いつものことになってしまいましたが、投稿間隔が空いてしまい、申し訳ございません。
一難去ってまた一難というか、実は今更ながら新型コロナウイルス感染症にかかってしまいました。
幸いながら、というべきなのでしょうが肺炎ではなく風邪のきついやつ、みたいな感じです。
遅くはあっても、何があろうと執筆は続けます。
みなさまもお体に気をつけて、これからもよろしくお願いします。作者より。
「ちょ、ちょっと待ってください」
先程と同じように来栖幸史郎が声を上げ、武義の半分もなさそうな細い右腕で本を掲げた。
「先ほども申し上げましたが、僕は北部を最近実地調査した王府所属の学者の論説文を読みました」
「ええ。先ほども聞きました」
智独がわざとらしくうんざりした調子で応じる。
幸史郎は続けた。
「論説文によると、北部の諸侯、というか北の人々の成錬派に帰依する気持ちはとても強いんだ。我々が想像するよりはるかに。たぶんだけど、それだけ生前の成錬大師の教祖ぶりと、彼が示した北方ゆずりの呪術だか魔術が強力だったからだと思う。彼らはそれを奇蹟と呼んでるけど」
「ええ、だが成錬が死んでから五十年以上経ってますよ」
「ああ。だけど彼らの信仰心は変わらないどころか、王府への不満が重なって近年増す一方なんだ。彼らを無理やり改宗させようとすれば内紛さえ起こる可能性がある」
「で・す・か・ら!」
智独がしびれを切らしてまた声を張り上げた。
来栖幸史郎はまたも両眼を丸くしてこの華美なまでの僧服に身を包んだ、あまりに通俗的で感情的な空気を放つ高僧を見つめることになった。
「武力が必要な局面ではあなたがたの協力が必要なのです!だからこそここまで大規模な軍勢が北上しようとしているいまこそが、邪宗である成錬派のものたちをまとめて改宗させる絶好の機会なのです!それに…」
「それに?」
変わらず腕を組んで胡坐をかき、どっしりと構えている風の崇禅寺武義が訊き返す。
智独は一瞬にやりとしたように見えた。
「この度の北部教化のための遠征は、明擁教主の命を受け、わたくしが長を務めさせて頂くことになっております。いざというときはわたくしの“龍眼”が役立ちましょうぞ」
「“龍眼”ですか…。蛇眼の使い手をさらに圧倒し、操るといわれる能力ですな」
武義は身動きひとつせず、こともなげに答えた。
「左様」
智独は武義の冷ややかな反応に不満そうな素振りを見せた。
「貴公が事あるごとにご自身のその能力を誇られるのは有名になっておりますぞ」
武義は続けた。
「ただし私が聞く限りにおいては、その能力はいささか不安定であるという噂も聞きますがな」
これに智独が身を乗り出し、むきになって反論しようとしたとき、
「ちょ、ちょっと待ってください」
またも来栖幸史郎がどもりながらも遮った。
「その、僧団が同行するのとか、智独さんが長を務められるのとかって、もう王府にも承認は得ている話なんですか?」
幸史郎は座ったまま身を乗り出して横を向き、黙ったままで横一列に並んで座る数人の王府の官僚たちを見た。
官僚のひとりが渋いものでも口に含んでいるような顔で、黙ったまま首を縦に振った。
もう真叡教団の明擁教主から総麗王に話が通じており、王は承認してしまった。我々官僚ではもうなにも決められないから話を振ってくれるな̶̶、
いかにもそう言わんばかりの表情であった。
そういうことか、と幸史郎も察して彼もまた渋い表情となる。
「もはや総麗王も承認された、とあればここであれこれ議論しても仕方ありませんが」
崇禅寺武義が変わらず落ち着いた口調で話す。
「北方遠征のための軍勢がいつの間にか、貴公の言われる北部教化や改宗のための軍勢にならないことを祈るばかりですな。もしそうなると、幾人かの犠牲を払ってまで北練井に先遣隊として出向いた堅柳宗次殿も残念がるでしょうからな」
「堅柳殿の遭われた災難に関しては、我々の耳にも届いておりまする」
幾分落ち着きを取り戻した智独が押し殺したような声で返した。
武義は続けた。
「無論我々の耳にも届いておりましてな。なんでも北方からの忍の使う“蛇眼破り”にあったとか」
広間にいる一同の間に緊張が走る。
「智独さまも教化活動の折には、その蛇眼破りとやらにあわないようにしなければなりませんな。おっと、この言葉は慶恩の都では禁句でしたな。それではこの辺で」
そう言うと武義は隣に座る幸史郎を促してともに立ち上がり、会議を去ることになった。
後には苦虫を嚙み潰したような表情の真叡教斎恩派の僧たちと王府の官僚たちが残されることとなった。




