第79話 第6章「堅柳宗次、北へ。」その10
閉め忘れていた納屋の戸口のところに、派手な濃緑色の着物をまとった背の高い中年男がひとり立っている。
やや面長で太い眉毛のその男は、不敵な笑みを浮かべているようにも見えた。
後ろには隠れるようにして、彼に急を告げ、助けを求めたもうひとりの小太りの村娘が立ち、こちらを逃げ腰でうかがっている。
こうなるとさすがに峯之助には蛇眼の作用を保ち続ける力は無かった。
いままで蛇眼にかかっていた村娘は突然我に返ったように目の光を取り戻した。
自分の着物の状況に気付いてあわててはだけた肌を着物で隠しなおす。
そして手に持った帯紐を手早く締め直すと、峯之助と緑の着物の男が対峙する脇を転がるように走って納屋の外へ逃げて行った。
まずい、と峯之助は焦った。
この時点で少なくとも三人が、峯之助が“蛇眼禁忌式目”のなかでも最も重い罪のひとつである“蛇眼による姦淫”を犯そうとしたのを見ている。
そして彼の主君である堅柳宗次はそういう蛇眼族の権威を貶めるような行為を絶対に許さない男だった。
なんとかしなければ——。
黒木峯之助はここでも、堅柳宗次いわく、
「弱い蛇眼族がすぐにやること」
に頼った。
つまり、蛇眼に頼ってこの難局を脱しようとしたのであった。
あまりの状況に酔いが醒めてしまった峯之助は一瞬目をつぶると、その両眼をふたたび紅色に燃え立たせながら見開いた。
目の前に立っている緑色の着物の男は、その風体からみてまずここの村人ではなさそうだった。
となると、いま祭りを盛り立てるために来ている旅芸人一座の一員だろう。
「おまえは動けぬ」
峯之助は震える声で自分より背の高い旅芸人の男を見据え、宣告するように言った。
緑色の着物の男から不敵な笑みが消え、無表情となる。
両手をだらんと垂らし、棒立ちとなった。
しめた、と峯之助は思った。
蛇眼をかけることができたようなのだ。
だが、彼の後ろに立っていたもう一人の村娘は怯え切った目をして後ずさっている。
逃げようとしているのだ。
峯之助の技量では旅芸人の男と村娘の二人共を同時に蛇眼にかけるのは不可能だった。
どうする———。
峯之助は蛇眼を発しながら必死で考えた。
だが、思いつくことは一つだけだった。
二人とも斬るしかない。
自分が罪を犯そうとした村娘は、あとで口封じができるだろう。
この二人を斬り殺し、なんとか口実をみつけよう。
まずはこの旅芸人の男からだ。
峯之助は変わらず邪眼で目の前の男を見据えながら、左の腰に差した長刀を右手でゆっくりと抜いた。
緑色の着物の男は蛇眼から逃れようと力を振り絞っているようで、両眼をかっと見開き、額から汗を垂らしている。
その両手がじわりと動き出した。
まずい。俺の蛇眼が破られてしまう。
それに小太りな方の村娘はいまにも逃げ出しそうではないか。
早くこの旅芸人の男を斬らないと———。
峯之助がさほど広くもない納屋のなかで、まわりにぶつからないように刀を振り上げたときだった。
ここにいる三人とは別の声がきこえてきた
「もはや蛇眼は恐れるに足らず。
わたしの手足、
わたしの眼、
わたしの心は自由に動く。
いかなる蛇眼もわたしの動きを止められぬ」
老女の声であった。
旅芸人の男と村娘のさらに後ろからその声の主は歩いてきた。




