第68話 第5章「開かれし北の大門にて」その10
「北の大壁の崩壊、と言いますがな」
洞爺坊が遠くを見つめながら言った。
「北の大門が悠久の時を経て再び開門した、と言ったほうがよいのでしょうな。預言の通りに」
「さっきから預言とおっしゃっていますが…我ら成練派の、ですか?」
賀屋禄郎が訊き返す。
「左様。成錬教主さまの教えと北方の伝説、どちらにも伝わる預言じゃ」
洞爺坊は北の大橋の向こうに広がる闇を茫洋と見つめながら続けた。
「いつか北の世界とわれらの世界を分かつ壁が崩れ、門が開くときがくる。しかるべきとき、しかるべき者が現れたときに」
「その…」
それまで皆の後ろで黙っていた赤間康太が口を開く。
「蒼馬から話を聞いたんですけど、あの大橋が自ら震えて大地を揺らし、そこからなんというか、光の球みたいなのが現れて大壁の塞がれた門を一瞬で削り出したっていうんです」
と、日が落ちて暗くなった中でも薄く白く浮かび上がるように見えている眼前の大橋を指差す。
「それって北の大橋が自ら判断して、いま壁を掘るぞ、門を開けるぞって決めたということなんですか?」
「そうかもしれんな」
洞爺坊は自分の白く長いあご髭をなでながら答えた。
「“橋”の中ににそんなことができるだけの、その…からくり細工みたいな仕掛けがあるってことなんですか?」
「もしくは魔術や呪術の類ですな。とてつもなく強力な」
と、ここで賀屋禄郎が口を挟む。
「なんにせよ、いまの我々に理解できる範疇をはるかに超えた道理でありましょう。そうですな、洞爺坊どの?」
「そうでしょうな」
と、洞爺坊が相変わらずのほほん(・・・・)とした返事をする。
「じゃあ、その成錬教主の予言や北の伝説にある“しかるべきとき”って今なんですか?」
と康太が食い下がる。
「そもそもしかるべきときってなんのときなんでしょう?もしかして常人が蛇眼族に戦いを挑むべきときが…」
「康太!」
それまで雪音と並んで立ち、彼女と黙って聞いていた蒼馬が思わず叫んだ。
これ以上のことを康太に言わせるわけにはいけなかった。
ここにいる大人たちはみな蛇眼族と常人たちとの融和を説いた真叡教成錬派の信徒たちだ。でも洞爺坊先生も、禄郎さんも、そして雪音も蛇眼族の一員ではあるのだ。
「ごめん、言い方を間違えたんだよ」
康太もしまったと思ったのか、すぐ訂正した。
「それにしかるべき者が現れたとき、って誰のことなんですか?」
今度は加衣奈が尋ねる。さすがに自分の恋人がまずい発言をしたのがわかって、あわてて注意を逸らそうとしているのだろう。
「わたし思うんだけど、その者って雪音ちゃんのことじゃないかしら?」
「えっ!?」
雪音が驚いた声を上げる。
「なんでわたし?そんなわけないじゃない!」
「いや、あながち間違ってないと思う」
康太が神妙な表情で言う。
「雪音ちゃんこそが洞爺坊先生も言ってた、預言で語られている“おわらせる者”なのかもしれない。だって雪音ちゃんの蛇眼は普通の蛇眼じゃないんだろう?龍眼とか言う、他の蛇眼を圧倒できる伝説の能力で…」
「もういいから!」
雪音が強いひそひそ声でぴしゃりと康太を止める。
「もうその話は無しよ!」
「幼馴染の皆さんはこんなときでもにぎやかですな」
賀屋禄郎がさすがに呆れた調子で若者たちの会話を止める。そして彼は洞爺坊のほうを向いた。
「ところで洞爺坊殿、貴殿は大崖の向こうの様子をここから探れると仰っていましたが」
「いかにも」
洞爺坊はうなづいた。
そしておもむろに懐に手を入れ、木でできたなにかを取り出す。
横笛であった。
「これで大崖の向こうにいる、見張りの者と話ができまする」
「ふ、笛ですか?」
禄郎が素っ頓狂な声をあげる。
雪音は思わず吹き出してしまった。
課外授業のときの巻物といい、いろんなものを懐から出してみせる洞爺坊が可笑しかったし、夜の帳が降りつつある北の大崖を目の前にして緊張した空気の中、禄郎がいつもの調子に戻って安心したのもあった。
「左様。お粗末ではありますが、この老いぼれが吹く笛をしばしお聞きくだされ」
洞爺坊はそう言うと横笛を構え、吹き口に唇を当てた。
次の瞬間、老人の吐く息は素朴でありながらも美しい旋律と化した。




