第63話 第5章「開かれし北の大門にて」その5
もう北部の秋のはじまりであったが、今日は珍しくやや暑かった。
どこからかの虫の声を聞きながら、海之江蒼馬と赤間康太ら、若い男たちは汗を流して作業に取り組んでいた。
それにしても、北の大壁が崩れてからの北方鎮守府の動きは早かった。
備えていたとはいえ、前代未聞のことが起こったのだ。
だが北方鎮守府は思考停止に陥らず、素早く必要最低限の対策を取った。
蒼馬は改めて雪音の父親、北方鎮守府将軍の鈴之緒一刹に感服せざるを得なかった。
北の大壁が崩壊してすぐ、北練井のほぼ全軍が動員され、“橋”のこちら側に集結した。
まずは北方から、南側の民が蛮族と恐れるものたちが急襲してくるのを警戒したのだった。
だが壁の崩壊から五日間を経たいまでも、一人として大峡谷の向こう側から古の橋を渡ってくるものはいない。
北は今までと同じ、というわけだった。
つまり今回の大壁の崩壊は北方にある蛮族の国が意図したものではない、ということなのだろうか。
そう考えるのはまだ早計なのか。
蒼馬にはわからなかった。
北練井の北方鎮守府から北へ忍を放ち、なにか情報を得たのかもしれない。
だけど鎮守府将軍の一人娘である雪音ならまだしも、自分ごときにそんなこと知りようがないとも思う。
ともかく、当面北方からの攻撃は無さそうだ、という見通しになったらしい。
そうなると次に崩壊した、というより古の姿に戻って大門の開いた大壁の再閉鎖の工事が計画されることになるはずだった。
ともかく、なんらかの工事が北の大門周りには必要である。
そこで蒼馬や康太のような北練井に住む民間人の若い男たちに招集がかかった、というわけだった。
まず蒼馬たちが命じられたのは、大門の周りを片付けることだった。
次いで土や砂を詰めた麻袋を積んで壁の崩落部分をぐるりと囲うような即席の壁を築くことになった。
それで蒼馬たちは鎮守府の兵士の指揮のもと、朝から日没前まで二人一組になって太い木の棒のそれぞれ端を担いだ。
その棒に吊るした袋に土砂を入れては運び、北の大門の開口部をぐるりと半円状に囲むように土嚢を積んでいく作業をこの三日間続けていたのだった。
そして今日もやっと夕方となり、作業は終わりとなった。
蒼馬たち民間の男たちと兵士たちはともに働いていた。
鈴之緒一刹の厳命もあって民間人の常人だけが奴隷のように酷使されることは無かった。
この非常時にも一貫した施策のおかげで、鈴之緒家は北部の蛇眼族にも常人にも圧倒的な支持を受けているのだった。
夜に大門の開口部周辺を照らす松明が準備され、雑兵たちの多くは兵舎に帰り始め、残りは夜警当番につく準備を始めている。
足軽が飼う番犬たちが数匹でやかましく吠えていた。
蒼馬たち常人の民間人も数十人いたのが多くは疲れた体を早く休ませたい一心で家路についた。
彼らのほとんどは家に帰ると家族が温かい料理や風呂を用意しているのだった。
一方でそんな家族もいない蒼馬のような人間が十数人はいて、かれらのために軍の委託を受けた付近の住民たちが共同で食事を用意してくれていた。
彼らは壁が崩壊したときは城の周辺に避難して野宿していたが、三日もすると北方鎮守府の判断もあり戻って来ていたのだった。
祭りのときに使う大鍋が用意され、焚火の上にかけられて鍋のなかには味噌味の芋汁がぐつぐつと煮えている。
初老だが快活そうな女性がそれを大きな木のレンゲでたっぷりとすくって、これも大きな木の椀に箸を渡して蒼馬と健太に差し出した。
「お兄さんたち、どうぞ」
ネギと里芋がたっぷり入って湯気が上がっている。
「ありがとうございます」
蒼馬は礼を述べてそれを丁寧に両手で受け取った。
蒼馬の横に立つ赤間康太には母親はいるが父親はいない。
大工だった康太の父親は彼ら家族が一時慶恩の都近くに出稼ぎして住んでいるとき、無理な建築計画を強いられて落下事故を起こし、亡くなってしまったのだという。
普段は明るい康太が、蛇眼族の武士や兵士に時折向ける嫌悪に満ちた眼差しはそのためだろう。
自分の父を奴隷のようにこき使い、挙句死なせてしまった慶恩の蛇眼族と重ねてみているのかもしれない。
ともあれ、康太の母はなかなかたくましい人物だった。
そんな悲劇のあとでも北練井に食堂をつくり、一人息子を育て続けた。
それに今の康太には恋人と言っていい、椎原加衣奈がいる。
彼女も病気がちな両親を抱えているとはいえ、康太が彼女の家によればすぐに彼のために食事ぐらいは振舞ってくれるだろう。
そんなわけで康太はここでなにか食べなくても良かった。
…のだが、そこはちゃっかりと、
「じゃあ俺もここで食べていこうかな」
と蒼馬に続き芋汁を受け取っている。
「熱いから注意してね。あっちでおにぎりも受け取って。どっちもお代わりできるからね」
気さくな女性は向こうを指差し、蒼馬たちはそちらへ歩いて大きな葉に包まれたふたつの握り飯を空いている片手で受け取った。
両手に持った食事を落とさないように注意しながら、蒼馬たちは休憩用に地面に敷かれたゴザまで歩いて行った。すでに何人かはそこに座って食事にありついている。
ふたりともここで食べよう、とあぐらをかいて座り、葉に包まれた握り飯を傍らに置くと芋汁に息を吹きかけ、さましながらすするように食べ始めた。
「あちっ」
康太が思わず言い、蒼馬は大丈夫かよ、と言いながら苦笑してしまった。
それからはひたすら食べていたのだが、思わず前を向くと北の大壁、いやいまは北の大門が目に飛び込んでくる。
すでに日没に入りかけており、雑兵たちがかがり火をつけはじめていた。




