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蛇眼破り  作者: 石笛 実乃里


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第45話 第4章「堅柳の郷と慶恩の都」その6

 佐之雄勘治が広い庭に降り、水流に近づいてきたのは、香流が赤子の堅柳泰賀に乳を飲ませ終わり、着物を整えたときだった。

 勘治はびくりとしたように立ち止まり、しばらく立ったまま待っていたが、やがて頃合いを見計らって近くに立っていた護衛の武士二人にご苦労、と声をかけた。

 続けて赤子を抱いて立っている香流の母親にも一礼する。

 常人である香流の母親は蛇眼族である勘治にそんな丁寧な態度をとられてすっかり恐縮し、眠っている赤子を抱いたまま慌てたように深々と頭を下げた。

 香流は後ろを振り向き、勘治の姿を認めるとにっこりと微笑んだ。

 勘治は間が悪そうにえへん、と咳ばらいをすると香流と赤子にゆっくりと近づいた。

「申し訳ありませぬ、香流どの。子守で忙しいときに」

「いいえ」

 香流は改めてにっこりとした。

「勘治さまもどうぞお座りになってください」

と隣にある庭石をみる。それも平らにして座りやすくしたものだった。

「それでは。かたじけない」

と勘治もそこに座り、改めて乳母と赤子を見つめた。

「泰賀さまもすくすくと成長されているようですな。私も忙しくてあまり見させて頂く機会がありません。それで少し気になったのです」

と、自分がここに来た表向きの理由を話し、我ながら取ってつけたような物言いだ、と恥ずかしくなる。

「それにしても、香流どのも大変ですな。ご自身の娘さんもいらっしゃるのに」

とぎこちなく言葉をつなげる。

「それがだいじょうぶなんですの」

と香流は屈託ない微笑みを絶やさず話した。

「ご当主さまに許しを得て、実家の母も城内に住まわせてもらっているのです。私が泰賀さまの乳母をしているあいだ、娘は母が面倒をみてくれます。それに私のおっぱい、じゃなくて母乳も十分出ますのよ」

 相変わらずの香流の発言に勘治はまた顔を赤くしながら答えた。

「そうでしたか…それは良かった。ところで…あなたのご主人は大変な目にあわれているようですが…」

 つい尋ねてしまう。勘治は今度は自分を恥じて赤面した。

「それがよくわからないのです」

 香流の顔から流石に笑みは消えてしまった。

「案内人と共に霧の領域に入って、それきり消息がわからなくなったと聞いています」

「案内人、と称する者は霧の民の一員だったのかもしれませんが」

勘治は答えた。

「いづれにせよ霧の領域を安全に渡るのは何人にとっても至難の業でしょう。つい先日もわれらが家臣団の一員が酷い目にあったばかりです」

「春日野慶次郎さまですね?」

「ええ。彼も儀礼僧の先導で安全に任務を果たす予定だったのですが…」

「慶次郎様はなんとか九死に一生を得たと聞いていますわ。私の夫も同様に見つかってくれることを今は祈るだけです。できれば元気でいてくれて、またお城に美味しいお肉を届けてくれればいいのですけど」

「そうですな。すみません、ただでさえ仕事が大変なときに心配されていることを訊いてしまって」

「いいんです。わたしとしては、彼の無事を祈るだけですわ。時々無理をする人ですから」

「我々も出来得る限りの手段を用いて御主人の捜索をするよう、指示を出しております。それ以外でもなにかお困りのことがあれば何なりとご相談ください」

「まあ…本当にありがとうございます」

 それから、しばらく沈黙が流れた。二人と赤子の間に流れるのは流水のせせらぎと木々の葉を揺らすかすかな風の音だけだった。

 赤子は寝入ってしまったようで、香流はその寝顔を優しく見つめていた。

 そして話しかけたのは香流の側からだった。

「勘治さまは…」

「はい?」

「蛇眼族なのに蛇眼をお使いにならないのですね」

 佐之雄勘治はその言葉をきくと、思わず顎に手をやって考え込んでしまった。そして大真面目な顔で言った。

「いまや蛇眼族がその力を常人にみだらに使うことはそうそう無いかと思います。いくつかの反乱の後、真叡教斎恩宗の主導で蛇眼の掟、いや蛇眼式目(じゃがんしきもく)という名の法がつくられ、不当に蛇眼を用いたときの罰則まで定めていますから」

「そうですわね」

 香流は勘治のあくまで教科書的な返答も我慢強く聞いていた。こんな冗談も言えない自分の言うこともこのような姿勢で聞いてくれるのも彼女ぐらいではないか、と勘治は思う。

「でも勘治さま以外の蛇眼族の方々がその力を常人に使うのを何度も見てきましたわ。わたしたちが少しでも意にそぐわない振る舞いをしたときに…見ていてとても怖かったです」

「わたしが蛇眼を使わない理由はそこなのですよ」

 勘治は思わず熱を込めて言った。

「私はその…私の大事な人たちを怖がらせて遠ざけたくはないのです。かつて若いときにはそれがわからず過ちを犯したときもありましたが」

「そうでしたの?でも、いまの勘治さまはとてもお優しいですわ」

 勘治は自分の耳と頬のあたりがさらに紅潮して熱くなるのを感じた。

「…ありがとうございます」

 勘治はそう返すのが精一杯だった。そして香流が赤子の堅柳泰賀を屋敷に戻し、勘治は城から出発するまでの束の間、何気ない言葉を交わしながら楽しくも暖かい時間を過ごすことができた。

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