第44話 第4章「堅柳の郷と慶恩の都」その5
香流と赤子が去ると堅柳宗次と牧芽の夫妻、補佐の佐之雄勘治の三人は襖を開けて広い板間に入った。
昼食の膳はすでに三つ用意されており、三人ともそれぞれ膳を前にして四角い畳座布団の上に座る。
牧芽は真叡教斎恩派の儀礼にのっとり、率先して彼らの神の名を呼びながら手を合わせた。
「爾来大神よ、我らに力をお与えいただきありがとうございます。恵みをありがたく頂きます」
宗次はそれをみて苦笑するような表情を浮かべながら手を合わせ、簡便に頂きます、とだけ言い、勘治もそれに続くと三人は箸を持って食事を始めた。
夫婦の間に信仰心の温度差があるのは明らかだった。
食事は茶碗に盛られた米飯、豆腐を控えめに入れた味噌汁、野菜と茸類の煮物、狩られた野鳥の胸とももの肉を焼いてよく香辛料をつけたものが綺麗に切られ、皿に整って盛り付けられている。
美味いな、と食事を口にしながら宗次が呟く。
妻の牧芽が口を開いた。
「ところで春日野さまは元気でしたか?」
宗次は答えた。
「慶次郎はまあまあ元気だったな。あいつのことだからあと一日二日もあれば回復するだろう。医師にも太鼓判をもらったと言っておった」
味噌汁を一口のんで口を空にすると話し続ける。
「本当に霧の領域とはわからない場所だ。ところで以前から話していた通り、都に行って王国直轄軍と八家門各所属の軍からなる連合軍を動かす話がつけば、すぐに北方遠征に向かうこととなる。まず我ら堅柳一族の直属軍が尖兵、というか先行部隊として出向き、旗振り役を果たさねばならんだろうな」
「そんなにすぐ北へ向かわなければならないのですか?」
牧芽は今着ているような紅色の華やかな上衣が似合う鋭いまでの美しさと若さを持った女性であったが、その細い眉をひそませながら夫に訊き返した。
「そうだ」
宗次は素っ気なく答えた。
「慶恩の都からの北方遠征、となれば堅柳一族が先頭に立つ。これが神奈ノ国建国以来の伝統みたいなものだからな」
「ええ。でも…」
「それに今回は状況がいささか特殊でな。北の大門が開いた、というか破られたのはもう言っただろう?」
「ええ」
「北方鎮守府を統括している鈴之緒家は穏健派を気取っているからな。これを好機と捉えず大門を再び封鎖しようとするだろう」
「かれらは北方の蛮族と密かに通じている、という噂もありますわね」
「その通りだ」
「北部総督が誰であろうが、あなたにとやかく指図することはできないと思いますわ。八家門のなかでも特に名門といわれる堅柳家の現当主なのですもの」
宗次はふん、と鼻で笑うようにしながらそうだな、と答え、その後は黙って食べながら考えた。
確かにこの度の計画に関しては誰にも指図は受けたくないし、誰にも止められたくない。だがもしそうなれば、それなりの対応はしなければなるまい。
たとえそれが北方鎮守府将軍であっても、だ。
自分はそのことに関してはもう腹を括っている。
そうなればそれが父上の無念を晴らすことになるのかもしれない。
宗次はそんなことを考えていた。
食事が終わると佐之雄勘治は主の堅柳宗次に許しを得て、慶恩の都に出立するまでのわずかな時間に中庭を見に行くことになった。
齢をとってくると造園などに興味が出てくるのです、慶恩の都に行く前に是非完成した水流を観てみたいのです、というのが名目だった。
本心は別のところにあったのだが。勘治はそれを意識すると自分の顔が紅くなるのを感じ、年甲斐もなく、と内心自分を叱った。
その本心の対象である乳母の香流は中庭の真ん中近く、造られた小川の淵にいた。
大きくて上が平らな石の上に座っている。
横には年老いてはいるが十分にしっかりした感じの彼女の母親が、立ったままで彼女の孫娘、つまり堅柳家の一人息子とほぼ同時期に生まれた香流自身の一人娘を抱いていた。
一人娘の赤子は祖母の腕の中で、いまはぐっすり眠っている。
一方、香流はおなじく赤子である堅柳泰賀をやわらかく包むように抱いていた。
赤子の泰賀が少しむずがるような仕草をし、半分泣いているような声を挙げる。
「まあ。おっぱい欲しいの?」
香流はそう言って腕の中の赤子を見つめて微笑んだ。
香流の母親がこっちは大丈夫だよ、と言って自分の腕の中の赤子を抱いたまま歩いて少し離れる。
娘が乳母の仕事に集中できるよう、気を使っているようだった。
香流は微笑んだまま母親の方を向いてありがとう、と言うとまた自分の腕の中の赤子に視線を戻した。
赤子を抱いたまま右手を使い、着物の左胸をはだけると赤子をそっと引き寄せる。
赤子はむずがるのを止め、ごく自然な振る舞いのようにつんと立った香流の乳首に吸い付き、彼女の張った乳房からひたすらに乳を飲みはじめた。
座りやすいようにできた庭石に注ぐ木漏れ日と、庭に小川のように引き込まれた水流のせせらぐ音、そして存分に配置された緑と小鳥たちの歌のなかで赤子はただ乳母に抱かれ、その乳を飲み続けた。




