第38話 第3章「それぞれの午後といつもと違う朝」その13
増々大きくなり、細かく突き上げてくるような振動とますます大きく聞こえてくる唸り声のような低音に恐怖を感じながら蒼馬は階段を登り切り、見張り広場にたどり着いた。
そのとき、そこには雪音と当番の若い男の兵士が二人おり、ちょうど雪音が鐘を鳴らし続けていた兵士に指示を出しているところだった。やっと鐘の音が止んでいる。
「よくやってくれました。もう鐘を打つ必要はありません。皆逃げることができました。この地面の震えを感じて鐘を打ち始めたのですか?」
半鐘を打ち続けていた足軽姿の兵士は涙を流していた。もうひとり、同じく足軽姿の兵士もべそをかいているような顔をしている。
みな動揺しているのだ。しばしの平和の後に突然降りかかったこの異常事態に。
動揺しながらも任務を全うしたこの兵士たちに蒼馬は感服するしかなかった。
若い兵士はなんとか自分を落ち着かせながら言った。
「その、震えているのは地面じゃないです。あれ」
と、半鐘が取り付けられているのとは反対側、つまり断崖と河、そして北の大橋がある側を指差した。
雪音はすぐに見張り広場の反対側に駆け寄った。そこがつい昨日彼女と短いながらも語り合った場所とは蒼馬には信じられない思いだった。
だが今は昨日の思い出にひたっているどころではない。蒼馬と当番の兵士二人、そしてようやく見張り広場にたどり着いた賀屋禄朗も雪音に続いた。
早朝の薄明のなかでも北の大崖は暗くて深く、向かい合った断崖絶壁に渡された巨大な白い橋が浮き上がるように見えている。
北の大橋であった。
そしてそれは確かに震えていた。目で見てわかるほどに。
「は、橋が怒っておりますぞ」
禄郎がうわずった声を挙げた。
確かにそう見える。なにか怒りに震えているように見える。
「何かが目覚めたんだ。橋のなかにあるなにかが」
蒼馬も思わず声を出して言っていた。
「北の蛮族がなにか仕掛けてきたのでは?」
兵士のひとりも思わず声を挙げる。
「いや、違うと思うわ」
雪音が振動を続ける北の大橋を、胸の下ほどまである見張り広場の縁壁に身を乗り出して見据えながら答えた。
「あれはなにか、橋に呪術が仕込まれていてそれが今になって発動しているみたい。それが何かは…」
「姫っ」
禄郎が叫んで橋の真中を指差した。
一同はそこで信じ難いものを目にした。
震え続け、低い音で蜂が飛ぶような音を橋は出し続けていたが、その真ん中あたりのところで光の球のようなものが発生していた。
皆が呆気にとられて見ている間に光の球は大きくなっていく。
その周りには小さな稲妻のような火花がいくつも走り続けている。
そして光の球の方向から熱風が吹いてくるように感じられた。
光球は膨れあがるようにさらに大きくなり、それに応じるように熱風も強くなる。
見張り広場に立つ面々は光球から目が離せない反面、その熱風に怯えて片腕で顔にそれが吹きつけてくるのをさえぎらなければならなかった。
光の球はついにはその直径が大人三人分ぐらいの大きさになった。
蒼馬も他の者と同じく、逃げなければ、と思いながらも体がいうことを聞かなかった。
縁壁にしがみつくようになったまま片腕で顔を守り、その間から謎の光球を凝視するほかない。
すると持続する低音を発しながら白く光る球の表面に、やや暗い影が幾本かの線のように生じているのに気付いた。
暗い線はゆらめくように動きながらなにかひとつの像をつくっていくように見える。
低い音と振動がさらに大きくなる。
音はまるで脳髄に直接向けられているようで、両手で耳を塞いでみてもなんら変わらないように思える。
音と振動は、それを知覚する者の心を狂わせてしまうような不吉さに満ちており、それと熱風がさらにひどくなって耐え難いまでになったとき、光球の表面にうごめく陰がひとつの像を結んだように見えた。
人の顔であった。
蒼馬にはそれが男の老人のような顔に見えた。
といってもそれは例えば洞爺坊のような円熟した温和な老人の顔とは違う。むしろ対極にあるかのような顔だ。
影はさらにはっきりと光球に彫刻されたような顔となった。
底なし沼のような両眼をもち、口をかすかに開いた恐ろしい老人の顔。
あれは、と蒼馬は思う。
神の顔だ。
でも我々の神ではない。古代の神、前史文明の神で、前史文明を滅ぼしてしまった神。
そんな恐ろしい邪悪な神が何千年かの眠りからいま目覚めてしまったのだ。
蒼馬は熱風を避け、思わずしゃがみ込むようにしながら横の雪音を見た。
そして仰天した。
雪音は手で顔を覆うのを止め、すっくと立ちながら光球を見据えていた。
その眼が紅色に燃え上がっていた。
「雪音ちゃん‼」
蒼馬は叫んだ。
「何してるんだ!」
雪音は答えなかった。ただ光球を見据え、その両眼を紅色に燃え立たせながら大きく見開き、
「鎮まりなさい!」
と一喝するように言葉を発した。
蒼馬は思わず雪音に抱きつくと、彼女を無理やり縁壁の陰に押し倒した。
「何するの!」
雪音が叫ぶ。まだその両眼は紅色のままだ。
蒼馬が子供の時以来見ることのなかった、雪音の龍眼であった。
「だって!」
蒼馬も見張り広場の石畳の上に転がり、雪音に半ば覆いかぶさりながら叫ぶ。
「そんなことしたら君があれ(・・)に殺されてしまう!」
「そうですぞ!」
賀屋禄郎も縁壁の陰にしゃがみ込みながら雪音に叫ぶ。
「あまりに危険です!いまはただ身の安全を考えないと!」
「でも!」
雪音も叫び返す。
「あれを何とかしないと、あれはきっとこの街を壊してしまう。私がなんとかしないと」
「それでもだめだって!」
蒼馬も光球の発する持続する低音で耳鳴りを起こしながら、それに抗うように大声を出した。
石畳の上に倒れこんだまま雪音はなおも抗議しようと覆いかぶさった蒼馬を見据える。
その両眼にはまだ紅い炎が無意識に残っていた。
それは決して蒼馬に向けられたものではなかったが、蒼馬は雪音と目が合った瞬間、頭に激しく殴られるのと同じような衝撃を覚えた。
意識が遠のきそうになる。
思わず石畳の上に倒れこみそうになった。
そこで雪音もやっと我に帰った。自分の方に倒れかかって来た蒼馬を受け止めると
「ご、ごめんなさい」
と言って一緒に起き上がろうとする。両眼の炎は消えていた。
蒼馬もすぐに正気に戻り、
「僕こそ…」
と言って二人は一緒に起き上がった。
そのとき、低いくぐもった老人のような声が響き渡った。
なにかを語っているようだが、意味はわからない。
自分たちと同じ言語かどうかすらわからなかった。
見張り広場の上の面々は思わず縁壁に身を隠すことも忘れ、立ち尽くして光球を見つめた。
声は光球から聞こえてきたのだった。
光球の表面に見える老人らしき像はよりはっきりしてきていた。
そしてその口はより大きくなり、その口を開いて声を発しているかのようにしか思えなかった。
何を訴えているんだ?
蒼馬は懸命に聞き取ろうとしたがわからない。
そして巨大な老人の像の口から発せられる言語は低いくぐもった調子を続けながら、段々と叫ぶような狂おしさが増してきた。
「あ、あれは生きておるのですか?」
禄郎がなんとか素っ頓狂な声を発した時、光球は意味不明な老人の声を響かせながらゆっくりとこちらに向かってきた。ジリジリ、という音も聞こえる。周りにいくつも生まれては消える小さな稲妻が発する音だろうか。
光球がさらに近付き、振動も音もさらに高まっていく。
そして次の瞬間、光球はコマのように高速回転を始めるといきなり速度を増し、こちらに突進してきた。同時に老人の声は金属的な叫び声のような鋭く高い音へと変わり、立ち尽くしていた蒼馬と雪音は耳鳴りを起こしながらうずくまってしまった。




