第31話 第3章「それぞれの午後といつもと違う朝」その6
いつものことではあるのだが、一刹と雪音が夕食を摂り始めたのは結局夕日も落ちかけて暗くなり始めてからだった。
一刹には色々と政治的で事務的な仕事がいつも山積していた。
雪音は雪音で、真面目でしかも何でも自分でしたがる性分だった。
そんなわけでどうしても夕食の前に学問所で学んだことの復習や予習、それに自分がしたい勉強、おまけに時々家来たちが食事を作っている厨房に入り込んで自分も食事作りの手伝いなどをしないと気が済まなかった。だから二人がそろって夕食を摂ろうと思えば一般の家庭より遅い時間となった。
北練井城の内に目立つ木造建物は二つある。ひとつはこの街で最も高い五階建ての天守。そしてもうひとつはその横にある平屋の館で、通常一刹も雪音もここで過ごしていた。
食事をする部屋はこじんまりした板の間で、周囲の部屋とは襖、庭に面する縁側とは障子で分かたれている。
すでに薄暗くなった部屋で蝋燭を灯しての食事となった。
二人は向かい合って敷物の上に胡坐で座り、それぞれの前には足付きの紅い色の食膳がある。
食膳の上には本日の夕食があった。
川魚の塩焼き、キノコと野菜がふんだんに入った味噌汁、豆腐、漬物、そして玄米。
小皿に入った醤油が添えられている。
それぞれ料理に合わせたような大きさと形の磁器の皿や椀に入っている。
食材、食器すべて地元、神奈ノ国の北部のものだった。
「いただきます」
とふたりで声をそろえ、次いで雪音が、
「お母さま、頂きます」
と小さな声で改めて手を合わせた。
「気が付けばもう九年だな」
一刹が膳の上から箸を手に取り、味噌汁の椀を持ち上げて口をつけながら言った。
九年の意味は二人には言わずともわかっていることだった。一刹の妻、雪音の母親である多加江が病気で亡くなってからの年月である。
「ええ」
雪音も箸を手に取り、ただそれだけ答えて食べ始める。
「この魚は美味いな」
一刹も食べながらしんみりしてしまった空気を変えるように、朗らかに言った。
「ええ。厨房で聞いたのですけど、漁師さんが北芹河の支流にまで降りて行って魚を獲ってきたのですって」
「ほう」
「一部の漁師さんが北の大崖を降りて川の本流で魚を獲っているんですって。それに一部の狩人さんたちは崖の向こう側へ渡って獣を獲っているっていうんです。彼らだけが知っているけものみちを通るんですって。お父さまはご存じでした?」
「うむ、聞いたことはあるな。そもそも北の大門が塞がれ、大橋が渡れなくなってからは一度に多くの人員が大崖を超えて移動することは不可能となったわけだが、だからといってわずかな数の人間がひそかに別の道を使って北方と行き来することが不可能になったわけじゃない」
「…そういう通路があるってこと?」
「そうだ。その狩人たちが使う道と同じかどうかは知らんが、われらが北方鎮守府もいくつか通りみちを把握している。そこを何者かが行き来するのもな」
「何者かって…」
「北方からの忍の者と、慶恩の都から北方へ向かう忍の者たちだ」
「慶恩から…なの?」
「そうだ。中央の者たちには昔からどうも北方鎮守府を信用していない者もおってな。我らが北方と繋がっておると疑っておるらしい。そんなわけで彼らは我らと何の連絡も交わさず、ただ北へ向かって隠密行動をとるのだ」
「…なんのために?」
「理由は色々考えられる。いま、中津大島と南之大島の海峡が分断され、通れなくなっているのは知っているだろう?海獣をてなずける技を持った渡し人の一族が絶えてしまったからな。北にも同じような技を持っている者たちがおって、それで北之大島にも渡っているらしい。場合によっては彼らをさらってくることも考えているのかもしれん。ほかには…」
「…ほかには?」
「われら北部の諸侯や真叡教成錬派の修道僧たちが北方と繋がっている証拠を探しているのかもしれん。それを掴めば我らを貶め、斎恩派たちは再び北部の支配権を握れるからな」
「…堅柳一族も絡んでいるですか?そんな企みに」
「うむ。そうかもしれん。彼らは自分たちの北方侵攻の失敗を我ら鈴之緒家のせいにしたがっているからな」
鈴之緒一刹はしばらく話すのをやめ、食事を続けたが、やがてまたおもむろに言葉を発した。
「食事時にする話ではないかもしれんが…」
「かまいませんよ?」
雪音も箸を動かしながら応える。
「慶恩の都に派遣しておる者から急ぎの知らせが来た。幕府が“霧の民”の幾人かを反逆罪で捕らえ、処刑として霧の領域で生贄の儀式をしたらしい」
「…そうなのですか。相変わらずですわね。斎恩派の儀式僧の残忍さは。慶恩の近くにある霧の領域には大蛇が出る湖があるのでしょう?」
「そうだ」
「そこで罪人…と彼らが定めた者たちを大蛇に差し出して生きながら食わせてしまうのだとか」
「そうだ。そのときもそうする予定だったらしい」
「…予定?」
雪音の箸が止まる。
「実際はそうならなかった。北方から来た忍の集団が生贄たちを助けに入ったらしい」
「…それでどうなったのですか?」
「儀式僧や護送の武士ら多数が殺され、北の忍たちは救出に成功したらしい。この話にはさらに驚くべきことがあってな。北の忍は蛇眼破りを使い、さらに呪術で彼らの信奉する神獣を召喚したらしい」
「…龍鳥ですか?」
「そうだ。さすがお前も北方の研究をしておるな。それが大蛇の首をひと捻りでちぎってしまった、と生き残りは証言しておるらしい」
「いままでに聞いたこともない話ですわね」
「ああ。わしもこんな話は聞いたことがない。我ら蛇眼族は神奈ノ国を興して以来、霧の民とは一定の距離を置いて来た。彼らは数が少ないと思われたし、正直脅威になるほどの力を持っているとも思えなかったからだ。移動の多い彼らを統治するのは面倒だし、なにより彼らこそ真叡教の初期の作り手であったからな。蛇眼族は彼らから真叡教を借用したのだよ。彼らもずっと息を潜めておればそれで良かったのだが、これからはそうもいくまい」
「迫害が始まるのですか?」
「迫害はこれまでもあった。彼らの本拠地は中央山地の奥の奥にあるらしいから、迫害しても彼ら自身の社会に逃げ帰れば良いまでのことだったらしいが。これからは迫害どころでは無い、追討が始まるかもしれん」
「…穏やかではありませんね」
「穏やかでいられんのは我ら北部もそうだ。北方の国々や霧の民とのありもしない繋がりを疑われることになりそうだからな」
「面倒ですね」
「ああ。さらに面倒なことに、その生き残った武士は堅柳家の家臣らしい。彼らがこれを口実に何を言い出すか」
「…」
雪音もついに相槌の言葉を失くしてしまった。
「夕食の席にそぐわない話のついで、と言ってはなんだが」
今晩の鈴之緒一刹は饒舌だった。飯を口に運びながら少しせわしないぐらいの話し方をする。私に言いにくいことを言うときはいつもこうだ、と雪音は思う。




