第30話 第3章「それぞれの午後といつもと違う朝」その5
薙刀は長い柄の片方に穂と呼ばれる刃の部分がある。いま雪音が持っているものは稽古用であり、そこは削ったやや薄い木板でできている。彼女の前腕ほどの長さで、男性用より小ぶりに軽く作られていたが、刃の形は一般的な女性用より反りが少なく、突くのも斬るのも同程度に重視したものだった。雪音自身の指示によって作られたものであり、彼女は実際に同じ形の穂を持つ本物の薙刀も所持している。
一刹は家来に目をやり、遠くに行くように、と合図した。家来がその通りにすると、
「では、始めようか。はじめから蛇眼を使うか?」
と一人娘に尋ねる。
「はい。時間も短いことですし、それが稽古したいことですから」
と雪音は答えた。
父娘は離れて立ち、お互い一礼すると構えた。
模擬の刃を交える稽古に見えるが、本命はそこでは無い。
一刹の両眼がすぐに紅色に光り始めた。
「動いてはならぬ……」
一刹が紅色の両眼のまま、雪音に命じた。決して挑発するわけではなく、何か仕事で確認作業をしているかのような低く、冷静な口調である。そして木刀を構えながらじりじりと雪音に近付いて行く。
雪音ははじめ動くことも、声を出すこともできなかった。
「どうだ…動けるか?」
父親が娘にそう尋ねたのははじめに動いてはならぬ、と蛇眼とともに命じたその心的作用を解くことができるか、と問うているのだった。
なにか言いたげで苦し気な顔をしながら指一本動かさず、雪音の額に一筋の汗が流れた。
さすがに突出した蛇眼の才能、“龍眼”を持つと噂される我が娘でもこれを破ることは無理か、と一刹がさらに間合いを詰めたときだった。
突然弾かれたように雪音が踏み出し、「えいっ」と一刹に打ち込んだ。
一刹は姿勢を崩すことも無く、自らの木刀でそれを受ける。
木刀の刃と模造された薙刀の木の刃が打ち合うカーンという乾いた音が馬場に響いた。
厩の中から風切丸がヒヒーンといななく声が聞こえた。
主人である雪音が発したただならぬ気配を感じ取ったようだった。
「そこまでだ」
一刹は宣告した。
「今日はもう時間も無いしな。それにしても雪音。おまえ、本当に蛇眼破りの達人になったのだな」
最後の言葉を発するとき、やはり常人の家来の方に視線を走らせ、聞こえないように声を潜めてしまう。
常人との融和策を進める鈴之緒家であっても、蛇眼破りという言葉を常人の前で公然と使うのはいまだ憚れるのであった。
それは蛇眼族が常人に対して持つ唯一かつ圧倒的な優位性を放棄することを意味する。まだそれを公然と口にするほど自らの進める融和策に対する覚悟が無いのか、と一刹は自分に問うてしまうことが時々あった。今も思ったように。
「わたしは目を通さなければならぬ文書もあってな」
一刹は気を取り直したように言い、一礼すると木刀を降ろして柄の方を雪音に差し出す。
雪音は息を少し乱し、この短時間にかなりの汗をかきながら肩を上下させていたが、そんな父を見て我に帰ったように慌てて自分も一礼し、木刀を受け取った。
「ありがとうございました。やはりお父様のそれ(・・)を破るのは簡単ではないのですね。自分なりにかなり練習や研究を重ねているのですけど」
一刹はなにか言いたげな表情をして娘を見つめた後、黙って踵を返し館に戻って行った。
雪音もそんな父親の背中をしばらく見つめていたが、やがて厩に向き直ると練習用の木刀と薙刀を戻しにそこに改めて入って行った。




