第29話 第3章「それぞれの午後といつもと違う朝」その4
外では家来がすでに木板に円を描いて棒に取り付けた的を馬場の隅に立てている。
「乗るのをお手伝いしましょうか?」
家来が声を掛ける。
「いえ、大丈夫です」
雪音は答えると弓を左手に持ったまま鞍につかまり、垂らした鐙に片足を引っ掛けた。
えいっ、と小さく声をあげながらひらりと馬に乗る。
列島世界の馬は決して小さいとは言えないが、かといって乗るのに足台を要するほど大きくも無い。混乱した戦場でも容易に乗り降りできるのは利点であった。
雪音はいつでも即馬に乗れる袴を愛用していて良かったと思う。しとやかな着物が嫌いなわけではなかったが、こうやって思い立ったときにすぐ馬に乗れる利点は捨てがたい。
「じゃあ、始めるわね」
雪音は家来に馬上から声を掛けながら風切丸の首を返すように手綱を操り、馬場の一隅まで歩かせた。
家来ははい、と返事して安全な位置まで下がる。
「行くわよっ」
雪音は風切丸に鋭く言うと足袋と草履を履いた足を鐙に乗せたまま、軽く風切丸の腹をその足で蹴って合図した。
風切丸はそれに答えるように首を上げてヒヒン、といななくと次の瞬間には首を下げて走り出した。
たてがみを風で揺らしながら地面を滑るように駆けるその姿を見るだけで、風切丸が名馬と評されるのも皆が納得するであろう。そんな威風があった。
雪音は手綱を鞍に付いてある留め具に引っ掛け、両手を自由にした。馬と乗り手が意思を通わせていないと難しいことである。
背中にある弓筒に右手を伸ばし一本取ると、それを左手に持った弓につがえる。
矢を引き絞っている間に左手に的が近付いて来た。
そして的を通り過ぎる一瞬、矢を放つ。
鉄の矢尻が空気を切り裂き、次の瞬間には木板の的を撃ち抜く音が響く。
矢は的の真中に刺さっていた。
的の反対側に立っていた家来の男が手をたたいて雪音を称えた。
「お見事です。いつものことながら」
そのとき、別の男もまた拍手をしながら歩いて近付いてきた。
「まったくだ」
家来は彼の声に驚いて振り返り、その顔を見た途端にこれ以上は無いくらい深々と礼をした。
鈴之緒一刹、雪音の父であった。
一刹はなおもゆっくり歩いて近付きながらなおも軽く片手を上げて家来の礼を解くように合図し、馬上の雪音を見上げた。
「お父さま」
雪音が応じると一刹は微笑んだ。
「矢馳せ馬に熱心なのは良いが、そろそろ夕方だ。館に戻って着替えたら家での勉強を済ませ、それから夕飯を食べなければな」
「そうね。わたしも台所に入って手伝いたいし」
一刹はふっと笑って軽く肩をすくめた。
「自由にするが良いだろう。ただしこの間のように鹿をさばくのを手伝って自分も血まみれになるのは勘弁願いたいが」
「わかりました」
雪音も笑いながら答えると一刹は踵を返し、先に館へ戻ろうとした。そこに雪音が「お父さま」と再び声を掛ける。
「どうした?」
一刹が振り返って怪訝そうな顔で問い返すと雪音は先程と一転した真顔で答えた。
「せっかくですから、ここで武術の野外稽古もしていきましょう」
「いま、ここでか?」
「はい。いつでも馬上稽古できるように、模擬の武器も色々厩に置いていますし。蛇眼破りの技もより完璧に近付けたいですし」
雪音が馬上で最後の一言を声をひそめながら言うと、一刹は眉をひそめ、家来にちらりと目をやって聞こえていなかったかどうか確かめた。
「まったく…なんでこんなに熱心になったんだか。だが望むならやってみようか」
一刹の顔に微笑みがもどったが、今度は少し不敵な影が宿っている。
結局私もこういうことが好きなのだな、と一刹は思う。そして一人娘にその血は受け継がれている。
雪音は風切丸の首を撫でながら、早いけど今日は終わりね、と話しかけゆっくりと厩に戻り、その手前で馬から降りた。
風切丸を引いて厩の中に消えていったが、出てくるときには笠帽子を脱ぎ、代わって頭に白い鉢巻を巻いた雪音ひとりであり、両手にはそれぞれ木刀と木でできた模造の薙刀を掴んでいる。
雪音は父親に近付き、木刀の方を渡した。一刹は無造作にそれを受け取り、柄を持った片手でそれを一振りした。ブン、という音が響く。ふっ、と息を漏らして一刹は微笑んだ。
一方の雪音も真剣な面持ちで木の薙刀を両手で持った。
父親から距離を取ってこちらも試しに袈裟斬りにえいっ、と声を漏らしながら一振りする。




