第26話 第3章「それぞれの午後といつもと違う朝」その1
生徒たちは学問所に帰ってから、まだ昼過ぎと言って良い早めの時間に帰宅時間を迎えることになった。
この時間、いつも蒼馬の立場は変ったものとなる。彼は学問所に隣接した蓮華寺という名の呼ばれる真叡教寺院に住み込み、用務員の仕事もしているために、家に帰る皆を見送ることになるのだった。
そして雪音も帰る生徒のひとりだった。蒼馬は授業が終わるや否やいつものように早速箒を持って校庭の掃除の準備をし、帰る皆とそれじゃまた明日、などと声を掛け合ったりしていた。
雪音もいつものように「それじゃね、蒼馬くん」と声を掛け、手を振った。蒼馬もまた地面の落ち葉などを見ているのから顔を上げ、それじゃ、と片手を上げたがいつものように笑えない自分に気が付いた。
この関係に終わりが近付いてきているのはわかっているのだった。いまは晩夏で、あと半年足らずで卒業の季節となる。雪音は卒業後父の仕事を継ぐための修業期間に入るか、鈴之緒家の跡継ぎとなる男子を迎えるために見合いを考えるのかもしれない。
雪音は蛇眼族のひとりだ。彼女もまた血統維持の掟に従って真叡教斎恩派の指導者たちや父親が取り決める蛇眼族の男子たちと見合いをし、夫となる男を決めるのだろうか。
それとも掟に背いて自分の選んだ男と一緒に生きる道を選ぶのか…いや、やはりそれはあまりにも考え難い。あまりに敵に回す人、というか蛇眼族が多すぎる。あまりに大きな権威に盾突いてしまう。
校門の外にはいつものように鈴之緒家の家来である賀屋禄朗が迎えに来ている。もう初老となった禄朗は地味な茶色の着物を着て気配を出し過ぎず、それでいて暗くならずむしろ陽気そうな笑みを浮かべながら雪音に軽く礼をしている。彼が来るのは雪音の父である鈴之緒一刹の指示によるものだ。雪音は自分だけが迎えに来る家来がいる気恥ずかしさからか、一時は禄朗にそっけない態度を取っていた。が、最近は彼の立場を理解したのか、丁寧で感謝の意が伝わるような振る舞いをしている。雪音もより大人になったということなのだろう。
それにしても、と蒼馬は城へ向かって歩く雪音とその少し後ろを付いていく禄朗を見ながら思う。
蛇眼族は彼らが意のままに操れる常人たちに対し圧倒的なまでの上下関係を構築している。一方で彼ら蛇眼族自身の社会の中でも厳然とした封建制度を維持している。なぜだろうか。せっかく常人に対して圧倒的に優位に立つことができるのに、他の蛇眼族に服従することを選ぶ蛇眼族がいるのだろうか。
おそらく、なんだけど。と蒼馬は考えた。きっと五百年以上も経って蛇眼族と常人の主従関係にも綻びが目立っているのだろう。実際に大規模な反乱もこの支配の歴史上で何度も起こっている。結局すべて鎮圧されたけれども。ただ現在の体制を維持するのに蛇眼族はかなり危機感を持っているのも事実で、そのためにまず自分たちの共同体を統率のとれたものする必要があるのだろう。そういったところではないか。
「なに難しい顔してんだよ」
そんなことを言って不意に蒼馬の肩を叩くのは、いつも赤間康太がすることだった。
「なんでもない。じゃあな」
蒼馬も習慣としてそっけないながらも朗らかに言葉を返し、手を振った。
「じゃあね、蒼馬くん」
康太の横に並んで歩いていた篠原加衣奈もにこりと笑って手を軽く振る。
「うん、じゃあね」
蒼馬は加衣奈にも声を返し、また寺院の庭であり校庭でもある場所の掃除に戻った。
すると彼に近づいてくるひとりの若い修道僧の男がいる。
「層雲さん」
蒼馬はそう言うと頭を下げた。
層雲、と呼ばれた若い僧はにこりとした。
「蒼馬君、申し訳ないが夕飯の準備が終わったら今日は風呂も作ってくれるかな?洞爺和尚が今晩入りたいそうだ」
と表情と同じくにこやかに言う。
蓮華寺は決して大きな寺では無かった。というより規模でいうと明らかに小さな寺で、常にいる僧は寺の長である洞爺坊と、いま蒼馬の目の前に立つ層雲坊の二人しかいない。
層雲は北練井出身の蛇眼族の男子だった。若く、大柄ではあったが真叡教成錬派の僧侶を志し、洞爺坊のもとで修行や勉学に励んでいる。一方で蓮華寺に併設された、常人中心の学問所で算術などを教えている。
師匠である洞爺坊に似てとても人当たりが良かったが、それは彼が尊敬する洞爺坊に近付きたいと真摯に願っているためかもしれなかった。
そんなわけで住み込みで常人の寺男という立場の蒼馬にも怒ったことがないくらい優しかったが、それは蒼馬が北方鎮守府将軍を務める鈴之緒家の一人娘である雪音と幼馴染になっていることも影響しているのかもしれない。
それと、蒼馬はちゃんと確かめたことは無かったが、洞爺坊から彼の父親と洞爺坊の関係を聞いて気を使っているのかもしれなかった。
「はい、わかりました」
蒼馬が再び従順に頭を下げると、層雲も表情のにこやかさを絶やさず会釈して寺の中へ戻って行った。このように蒼馬と層雲坊の会話はいつもあっさりとしたものだった。




