第24話 第2章「北の大崖と大橋と大壁と」その13
「霧の領域ってわかっているだけで両手の数ほどあるのでしょう?」
生徒の一人が訊き、洞爺坊が「そうじゃ」と返す。
「その中にはとんでもない化け物がいっぱい住んでいる、と聞きました」
加衣奈が言うと、洞爺坊は自らの白い顎ひげをなぜながら考え込んだ。
「うーむ、住んでいる、か…この話は授業中にもしなかったが、厳密にいうと霧の領域ではわしらの住む世界とは別の空間、別の時間に生きるものたちが出入りしているようなんじゃ」
「…すみません。よくわかりません」
赤間康太が応えると洞爺坊は突然自分の着物の懐に片手を入れ、なにか細長いものを掴んで出した。
それはずいぶんと古びた巻物だった。勝手に巻きが解けないように留められていた紅い紐を洞爺坊がほどく。
「これから話すのは真叡教成錬派における霧の領域の説明じゃ。みな近くへ寄って見るがいい」
そう言うと洞爺坊はその古い巻物を幅の広い縁壁の上に置き、それを転がすようにしながら巻物を解いてみせた。生徒たちはそれを見ようと集まる。巻物にはなにやら古い文字がびっしり書かれている。
「これは今日、おまえたちに説明しようと持ってきた古い経文の巻物じゃ。内容は今日の説明とはさほど関係ないが、このぼろぼろの巻物が説明にはうってつけでな。みな知っての通り、巻物はこのように巻かれた紙を解きながら読む。というか、このようにしか読めん。つまり我々は巻物の端から順にしか読めないのじゃ。成錬派ではわれわれがこの世界を捉えるのもこれと似ていると説いている。つまり時間に沿って端から順に巻物を読むようにしか世界を捉えることができんのじゃ」
「それでは、」
雪音が質問する。
「巻物にあらかじめ読むべき文字が書かれている通り、この世界もあらかじめ何が起こるか決まっているということなのですか?」
「うむ。さすが雪姫。成錬派ではそれに関して面白い説明をしておりましてな。例えばこの巻物のすき間に入り込める虫のような小鬼がいたとします。小鬼は小さな筆を持っており、巻物が巻かれた状態であらかじめ色々と書いたり、書かれたものをいじったりしていくのですが、読む人間の側からはもちろんそれを目にするまでは読めんということなのです。だから我々にはそれがあらかじめ決められて書かれておったものなのか、われわれの行いに応じてあらたに書かれたり書き直されたりしたものなのかはわからんということなのです」
洞爺坊は雪姫相手だとくだけた話し方はしなかったが、再び生徒全体を向いて元の語り方に戻った。
「で、霧の領域に関してだがな。この巻物に虫食い穴があるのがわかるかの」
たしかにその巻物にはいびつな形の小さな穴がいくつか空いているのがわかる。
「巻物が巻かれている状態でこの穴があると、小鬼はその穴を自由に出入りできる。つまり我々にとっては未来の世界じゃが、小鬼にとっては時間の流れを飛び越えたり戻ったりすることができるというわけじゃ。だから我々が読めるはるか未来の話をあらかじめ読んで、ちょっと先の未来に戻り、話を書き換えたり、またその逆もできるというわけじゃ」
「ちょっと良くわからないんですけど…その巻物の虫食い穴にあたるのが霧の領域ってことなんですか?」
康太が尋ねる。
「うむ、康太も今日は冴えておるな。まあ、そんなところじゃ。さらに、な」
再び懐に手を入れた洞爺坊はさらにもうひとつの小さな巻物を取り出した。
まだ持ってたのか、と生徒たちがくすりと笑う。
洞爺坊はその巻物の紐も解いて縁壁の上で広げた。はじめの巻物に比べると新しく、虫食い穴も見当たらない。古いほうの巻物を両手で持ち上げるとそのままあたらしい巻物の上に乗せる。上になった古い巻物が下の新しそうな巻物の上に交叉するように置かれた。古い巻物の虫食い穴から下にある新しい巻物の紙面が見える。
「ほら、な。虫食い穴から他の巻物、他の世界が見えるじゃろう?もし他の巻物にも小鬼がいれば虫食い穴を通って我々の世界に来ることもできるというわけじゃ」
「その小鬼にあたるのが霧の領域に出てくるという怪獣やら神獣やら妖怪やら、というわけなんですか。やっぱり良くわからないですが…霧の領域って恐ろしい場所だということはわかります」
康太が頷きながら言う。
「恐ろしい、か…」
洞爺坊はまた考え込むように自分の顎ひげをなでた。
「ただ霧の領域という世界の虫食い穴、もしくは時間と空間の洞窟からは人智を超えたある種の力が湧き出しておるのも確かなんじゃ。実際蛇眼族を産み出したような力、生き物を進化させる力もそこから出てきておるという説もある」
生徒たちはしばし沈黙した。洞爺坊は神妙な面持ちになって静かに巻物を巻き直し、しまい始めた。
蒼馬と雪音は並んで縁壁に寄りかかり、共に同じ方向、北方を眺めた。
すぐ足元から北の大橋が伸びている。蒼馬は今さらながら大橋の幅の広さ、長さ、何千年を経ていまだの磁器のような美しい白色を保っていること、ちょっと離れただけでつなぎ目が見えなくなるぐらいの精巧な作り、それらすべてに驚嘆していた。
これを造った前史文明の人々とはどんな人たちだったのだろうか…。
そんな大橋の両脇には大渓谷が広がり、切り立った岩の崖の底に暗い緑色の河が流れている。北芹河であった。石でも投げ落とそうものなら河に落ちるまで深呼吸の3回ほどはできそうだった。ほとんど直立しているように見える崖の面には時折曲がりくねった枝を伸ばした、小さな松の木らしきものが生えている。
橋を渡らずにこんな峡谷を超えるなど人には無理なように思えるが、実際に超える人はいるのだ。密輸者や狩人は秘密の道を知っている。
自分の父親もまたその道を通って北方へ渡って行ったのだろう、と蒼馬は思った。




