第199話 第14章「国境越え」その5
蒼馬は天狗が両足に一本歯下駄を履いているのに気が付いた。
低く飛んでいる様に荒れ地に着地し、下駄で二、三歩歩くのだがふらつくこともない。
ひょい、ひょいといった感じである。
それを蒼馬がひたすら馬で後を追うことになった。
やがて天狗の行く先に開けた場所が現れた。
霧が立ち込めているとはいえ、そこが開けた場所だということはわかった。
その真ん中であろう場所まで天狗は進むとおもむろに振り返った。
「さて」
天狗は言った。
「石と霧で湿った土以外何にもない荒地ではあるが、お前の武術の稽古には十分だ。草原蒼馬よ、なにか質問はあるか?」。
「いくつかあります」
蒼馬はおずおずといった調子で言った。
「まず、なんで僕に稽古をつけようと思ったんですか?」
そのときだった。
霧の空の向こうから甲高い鳴き声が空気を貫き、霧越しに巨大な影が空を横切って羽ばたくのが見えた。
「ちょうど良いときに現れてくださった」
天狗もそれを見上げながら言った。
「龍鳥さまのお告げによるところが大きいからな」
龍鳥は霧の中旋回すると、近くの岩山の頂に降り立った。
巨大な体からの翼を動かしながらもう一度高い鳴き声で空気を震わせる。
蒼馬は霧の向こうから見える龍鳥の顔が人間の学者のように知性を感じさせるのに気付いた。
「龍鳥さまの言葉がわかるのですか?」
蒼馬は天狗に尋ねた。
「いいや、わからん」
天狗はあっさり認めた。
「龍鳥さまはわれらに伝えたいことがあるとき、人の言葉を話す動物を伴われる。猿の体をもついきものなどだ。われらはその言葉を聞いて龍鳥さまの意志を理解する」
「それで、僕のことも言ってたんですか?」
蒼馬が尋ねると霧の中から、
「まったく最近の若者は敬語ひとつ使えない!われらのほうが上だな!」
という声がする。
天狗は、声の方向に
「これはこれは、狒狒丸殿。ご機嫌うるわしゅう」
と言った。
霧の向こうから四つ足で駆け寄って来たのは一匹の大きな猿に見えた。
天狗と同様に異様に鼻が長く、顔に七色に見える筋が走っている。
この猿が人の言葉を喋っていたのか⁈
蒼馬は呆気にとられた。
「狒狒丸殿、どうか若者の無礼をお許しくだされ」
天狗は言った。
「この若者が龍鳥さまの告げられた今回の戦で大事な役割を果たすであろう若者、草原蒼馬です。彼はなぜ自分が選ばれたのか問うておるのです」
「うむ」
狒狒丸は言った。
「偶然、と言いたいところだがそれだけではすまされないところもある。話せば長くなるが、良いか若者よ?」
「はい」
蒼馬は猿が話すことに驚きながらも思わず返事をしていた。
「よろしい」
狒狒丸はえへん、と咳払いをして言った。
「ええと、まずなにから始めるかな。まず、蛇眼族の生まれた経緯から始めようか。若者よ、おまえは進化というものを知っているかな?」
「え?進化ですか?生物が環境に合わせて、とてつもなく長い時をかけてその姿を変えていくことだと学問所で教わりました」
「ほう。例えば?」
狒狒丸は問うた。
蒼馬は教わった通りに答えた。
「例えば、ある種の生き物にとって自然の中に高い木の上の葉っぱとかしか食べるものがなかったら、その生き物はそれに口が届く首が長い個体だけが生き残って、いつかその種は首が長い種になるという…」
「なるほど」
狒狒丸はうなずいた。
「間違ってはおらぬな。だが考えてみると少々都合の良い、確率の極めて低い出来事に依存しているともいえるな。そんな変化を待っている間に絶滅してしまう種がほとんどだろうに」
「はあ…」
蒼馬にはもはや話がわからなくなっていた。
「龍鳥さまはすこし違う考え方をしている」
狒狒丸は言った。
「すべての生物は、生命の器、乗り物でもある。生命はそれぞれの生物に乗って時を旅しているとも言える。そしてこの生物はただ時を旅するだけではない、未来も過去もそのなかに取り込むことのできる装置でもある」
「生物自身が?過去も未来も知っているってことですか?」
「まあそんなところだ」
狒狒丸はうなずいた。
天狗も興味深そうに聞いている。
「生命は未来に起こることを見きわめ、生物のかたちをそれに合わせるよう導くのだ」
「その…蛇眼族が生まれたのもそんな理由なんですか?」
「そこだ」
狒狒丸は言った。
「あるとき、当時から|蔑まれ弾圧されていた霧の民からひとりの男が生まれた。彼は目を光らせて相手を見据えるだけでその相手を意のままにあやつることができ、それは彼と彼の家族や仲間たちを生き延びさせるのに大いに有益だった」
「はい。もしかしてそれは斎恩のことですか?」
「そのとおりだ」
狒狒丸は言った。
「斎恩のような人物がまれに出現すれば霧の民はそれだけで十分だった。だが斎恩はそれを良しとしなかった。彼は自分の持つ能力を遺伝的に残し、殖やそうと考えたのだ」
「その…人工的に?」
「そう。生命の導きにただ任せた発現なら良かったのだが、斎恩はそれを人為的にしようと企んだ。彼はいままであったかれらの宗教を作り変え、蛇眼を自分たちの一族が他の者たちを支配する手段に変えた」
「それが真叡教斎恩派…」
「そうだ。かれらはその後、霧の民の社会から離れ、蛇眼族として中津大島を支配することになる。こともあろうに彼らは自らの由来も忘れ、霧の民の弾圧さえ行っておるのだ」
「つまり、蛇眼族はその存在自体が自然に反している、ということですか?」
「まあそんなところだ。現に人類は蛇眼族に支配されている間、何の進化もせずにとどまっているだろう?」
「はい…」
「ところがそこに、通常の人間から進化の希望が芽生えてきた」
「それが…」
「そうだ。蛇眼破りだ。龍鳥さまはこの世界における人類の進化を正常に戻すためにも、ここで蛇眼破りの灯を消してはならないと考えている」
「そ…それで僕を?」
「そうだ。龍鳥さまはお前に生きる術を教えたいと思っている。此度の戦を生き抜くための術を」
「教えてください!」
蒼馬はいきなり大声を上げた。
「僕も教わりたいです!いかなる蛇眼族にも打ち勝つ術を!」
「たとえ相手が堅柳宗次であっても、だろう?」
天狗は言った。
「そのための体術をいまから教える。心術のほうはすでに良き師がいるようだからな、鈴之緒雪音という」
「はい」
蒼馬は少し顔を赤くして答えた。
「よろしい。時間がかかるが気にせんでいい。その時間が過ぎるころ、外の通常の世界では瞬きするほどの時間しか経っておらん。霧の領域とはそういうところよ」
「わかりました」
龍鳥がまたひと声鳴いたかと思うと翼をはためかせ、岩山から飛び立った。
ふたたび霧の空を旋回し、霧の彼方へと飛び去って行く。
狒狒丸はそれを見上げていたが、龍鳥が飛び去って見えなくなると蒼馬と天狗の方へ向き直り、にいっと歯を見せて、
「では」
と言い、高く上げた太い尻尾をこちらに見せて四つ足で霧の向こうに駆け去っていった。
「それでは草原蒼馬よ、早速はじめようか」
いまや地面の上にすっくと立った天狗が告げた。
「まず、勝負において決着がついた時とは、どういう状態になっていると思う?」
天狗の問いに蒼馬は考え込んだ。
「どちらかが生きていて、もう片方が死んでいるってことですか?」
緊張しながら蒼馬は答えた。
「まあ極論すればそういうことになるが」
天狗は応じた。
「とくに剣の戦いに関しては片方が立ち、もう片方が倒れているということになるな。そしてもちろんおまえは最後まで立っているほうを選ばなければならん」
「はい」
「ところでおまえは両足つま先立ちで耐えられるか?」
「たぶん…」
「やってみよ」
蒼馬はやってみた。
蒼馬の運動能力ではそんなに難しいことではなかった。
「それでは両足かかと立ちはできるか?」
蒼馬はまたやってみた。
すぐにぐらつく。
「そうであろう。足裏の範囲内だけでも、重心を移動させるのはこんなにも難しいことなのだ」
「天狗さまは」
蒼馬はよろめきながら言った。
「一本歯下駄履いてるぐらいだから、こんなことも簡単にできるんですよね?」
「できん」
天狗はあっさり言った。
「これからおまえに練習用の剣を与える」
いつの間にか天狗は二本細長い革袋で包まれた練習用の木刀を持っていた。
一本を蒼馬に手渡す。




