第177話 第10章「逃避行」その12
「馬が一頭ずつ乗せられる筏がそこのほら穴に隠しているんだ」
と小三治が馬を降りながら指差す。
河の流れに半ばつかったほら穴が砂岸の端にあった。
みなも馬を降り、膝から下を河の水につけながら小三治について行った。
ほら穴の中は午前の日光が差し込み、奥まで見ることができた。
そして河の水に揺られている大きな筏がそこにあった。
たしかに馬の一頭ぐらいは乗せられそうだった。
彼らは小三治の指示に従い全員で筏をほら穴の外に引っ張りだした。
筏を河面の浅いところに浮かべ、繋がっている縄を小三治が持ちながら彼らはどうやってこの筏で河を渡るか話し合いをした。
「この河の真ん中あたり、深いところにはミズトカゲって獰猛な両生類がいるって聞いたことがある」
小三治は言った。
「まあ俺は数えきれないほどこの河を渡って来てまだ一度もお目にかかったことはないがね」
そう言って筏を見る。
「ちなみにこの筏の底にはミズトカゲが嫌がるって言われている薬草の調合をたんまり布袋に入れて繋げてある。筏が河を渡るとき薬草の成分が滲み出してミズトカゲを遠ざけるって寸法だ。俺は知らんがまあ効いてるんだろうな」
そして残り三人のほうを向いた。
「まず俺が馬と一緒に渡る。向こう岸に着いたら馬をその辺に繋いで俺だけが戻って筏をもう一度こっちへ持ってくる。そしてお姫さまと男の子を運んだらもう一度筏を俺が戻すから恩御姉が渡る番だ。いいか?」
もちろん、みなのために余計に河を渡ってくれておつかれさま、と三人は小三治に言って北芹河の横断が開始された。
もはや初冬ともいえるが今日は良く晴れており、河の水はまだ暖かみを残していて、幸運なことに今日の河の流れはとても静かだった。
そんな川面をまず小三治と彼の馬を乗せた筏が進んでいった。
小三治は筏に繋いでいた細長い櫂を巧みに操り、難なく向こう岸に着いた。
そしてほどなくして彼だけが筏に乗って戻って来た。
「雪姫さん、蒼馬、あんたらの番だ」
小三治は言った。
「俺が漕ぐ。あんたらは慣れてないだろうからな」
そして雪音と蒼馬は愛馬を降りたまま小三治の誘導で筏に乗り込み、次いで恩御姉も手伝って風切丸を筏に乗せた。
雪音の愛馬は自分のすべきことがわかっているかのように従順だった。
恩御姉がえいやっ、と言って筏を足で押す。
そして雪音と蒼馬ににやっ、と笑いかけ、
「行ってらっしゃい。あたしは後からいくよ」
と言った。
小三治が櫂を川面に差し、筏がゆっくりと横断を始めた。
北芹河の真ん中に達するまでは何事も起こらず、筏は静かな川面を進み続けた。
そして河の最も深いであろうところの上に達したときだった。
いきなり風切丸がひひん、といななき前足の蹄を筏の上で二、三度踏み鳴らして川面を睨みつけるようにした。
「どうしたの?いきなり——」
風切丸の手綱を持つ雪音は愛馬の視線を追うように川面を見つめ、戦慄した。
濁った川面の表面近くを数体の大きな黒い背中がこちらに向かっていたからだった。
「なんだありゃ?馬ほどもあるぞ!」
小三治が叫ぶ。蒼馬もそれを見て、彼の体は完全に固まってしまっていた。
「ありゃ多分ミズトカゲだ!」
小三治が続けて叫ぶ。
「なんでこんな時に!いままでこんなことなかったのに!薬草袋は効果ないのか⁉」
ばしゃりと水しぶきをあげ、ミズトカゲの一匹が水面上に飛び上がってその姿を現した。
それはその名の通りトカゲそのものだった。ただし小三治が驚いたようにその大きさは小馬ほどもあり、どんなオオトカゲよりも大きい。
ぬめるような黒光りする皮膚に覆われた胴体とそこから生えた手足には水かきがある。
頭はトカゲそのものだったが口からはヘビのように二股の舌をしならせ、両眼は黄色い光を放っている。
数匹こちらに身をくねらせるようにして泳いで来ていたミズトカゲたちはいまさらに体を浮かせその頭と黄色く光る両眼がはっきり見える。
「気をつけろ。馬を狙ってるぞ」
小三治が言い終わらないうちにミズトカゲの一匹がまた水面から飛び上がり、大きく口を開けて風切丸のいる方向に飛び込んで来た。
口からは牙が生えているのが見えた。
風切丸は筏の上でいなないて前足を上げ、身をのけぞらせるようにして後ろに下がった。
筏が大きく揺れ、蒼馬はよろめいた。
小三治が抜群の反射神経で飛んできた一匹の頭を手に持った櫂でしたたかに打った。
叩かれたミズトカゲはギャア、と奇妙な鳴き声を上げるとそのまま筏の端を飛び越え、水面にばしゃりと落ちた。
そのまま深くへ潜っていく。
「風切丸!落ち着いて!」
雪音は叫ぶと視線を川面に戻した。
二匹目のミズトカゲが飛び上がり、小三治がまたその頭を櫂で思い切り打ちすえる。
そのミズトカゲも奇妙な鳴き声を上げて水面に落ちた。
筏の上の三人と風切丸に水しぶきがかかる。
河岸では恩御姉がなにか一心不乱に叫んでいる。
雪音は川面を凝視したまま一息吸うとその両眼を紅色に燃え立たせた。
「なんだお姫さん、龍眼を使うのか⁉」
小三治が櫂を川面に再度突っ込み、懸命に向こう岸に着こうとしながら雪音に叫んだ。
「蛇眼は動物には効かねえって話を聞いたことはあるが——」
雪音は燃える視線でミズトカゲたちの黄色い目を見つめた。
するとミズトカゲたちは一瞬その動きを止めたように見えた。
「行きなさい。ここから去るのです」
雪音がミズトカゲたちに命じる。
ミズトカゲたちは下方向に一旦沈むとその黒い影たちが水中で反転し、離れていくのが見えた。
「すげえ…」
小三治が舌を巻く。
「雪姫さま、あんたが伝説の“おわらせるもの”じゃないのか?」
小三治の問いに雪音は首を横に振った。
「成錬派の教典にも“おわらせるもの”の記述はありますが多分私ではないと思います。そう感じられないのです」
「そうかねえ…」
小三治は残念そうに櫂を動かした。
「俺にはまさに“おわらせるもの”の技に見えるけどな…」
彼らは北芹河を渡り、恩御姉が渡るときには予定を変更し雪音も筏に乗ってミズトカゲの襲撃対策とした。
が、何事も起こらず、一同は馬とともに河を渡ることができた。




