第173話 第10章「逃避行」その8
「ここに男の子を寝かしておくれ」
ヨルンバが石の寝台、この洞窟の中で唯一人工的に見えるものの平らな面を指差した。
膝上ほどの高さの寝台に三人で力を合わせ蒼馬を横にする。
蒼馬は相変わらず白目をむいて意識朦朧としたまま、息を荒くして仰向けになった。
「ひとつ面白いことを試してみようか」
ヨルンバは言うといきなり雪音の手を握り、彼女を驚かせた。
「このまま私の手を握ったまま男の子の額に自分の額をくっ付けてごらん。いままでよくやってたんだろう?」
とヨルンバが言う。
困惑しながらも雪音は自分の額を蒼馬の脂汗が流れるそれに近付けた。
「幻覚を共有したって言ってたね?それをしてほしいんだ」
「はい」
雪音は小さく返事をし、言われるまま身を屈めてヨルンバの手を握ったまま蒼馬の額に自分のそれを接した。
蒼馬の額は依然高熱を発し、汗にまみれていた。
雪音はその感触を確かめながらさらにその奥へ入っていくように自分の意識を集中させた。
途端に雪音は自分の意識が吹き荒れる嵐の中に放り込まれるような感覚を覚えた。
嵐?違う。
これは火事だ。雪音は自分が火事の場面にいることを感じた。
そしてすぐ目の前には倒れた層雲坊を座り込んで抱きかかえている蒼馬がいた。
これは相馬くんがいま見ている幻覚なんだわ、と気付く。
「そうだ。察しが良いな」
と老婆の声がした。
ヨルンバの声が繋がれた手を通して心の中で響いているようであった。
よく見ると燃えさかっているのは蓮華之燈院で、ここは寺院の庭園であった。
おかしい。雪音は思った。たしかあの時、雪音が蒼馬を助け出して風切丸で必死の脱出を行ったときには寺院は燃えていなかったはずだ。
これはその後の寺院の姿なの?
蒼馬くんはそれを予知するかのように観ているの?
雪音は思った。
その時である。
馬のいななきが聞こえるとともに一人の武者が馬上から太刀を振りかざして蒼馬に向かい突進してくる。
その両眼は蛇眼の発動で紅色に燃えている。
堅柳宗次であった。
すぐに蒼馬の視界は堅柳宗次と彼が乗る黒い馬、そして彼の持つ刀の光でいっぱいになる。
そして宗次が裂帛の気合いとともに刀を振り下ろし、蒼馬の左肩を斬った。鮮血がほとばしる。
雪音は思わず叫び声を上げた。
「あわてるでない!」
ヨルンバの声が頭の中で響く。
「それはいまその男の子が観ている幻覚じゃ」
堅柳宗次は刀を振り下ろすとそのまま馬で駆け抜けた。
不思議で不自然なのはそこからだった。
左肩を斬られ、血を流した蒼馬が目を上げると堅柳宗次がまたそこにいた。
そしてまた同じように刀を振りかざし、同じように突進してくる。
堅柳宗次はまた刀を振り下ろし蒼馬はまた左肩を斬られた。
蒼馬は叫び声を上げ、倒れてしまう。
そしてなんとか起き上がったとき、そこにはまた黒馬に乗った堅柳宗次がいて、同じように刀を振りかざして襲いかかってくるのだった。
「わかるか?」
そんな場面をただ見るしかない雪音の心にヨルンバの声が響いた。
「これがおまえの男の子の心にいま繰り返し再生されている場面だ。こんな苦しい場面が繰り返し延々と再生されているからうなされているようになって本来下がるはずの熱も下がらんのじゃ」
「どうすればいいのですか?この洞窟にいれば治りますか?」
雪音は半ば叫ぶように尋ねた。
「洞窟に置くだけでは残念ながら足りんじゃろうな」
ヨルンバの声は答えた。
「まずはこの男の子の心をこの恐れに満ちた場面から離してあげなくてはならん。蛇眼のお嬢さん、人間はどうやって傷を癒すかご存知かえ?」
「いいえ」
雪音は答えた。
「人間も蛇眼族もだな、体は細胞というものでつくられている。何兆もの細胞で作られておるんじゃ」
「はい」
「この細胞というものはひとつひとつがその人間の意識を介さずに神の意志と繋がることができる。怪我や病気のときはそれが発動して細胞が傷ついた部分の修復を始めるんじゃ」
「はい」
「ところがときに人の意識がそれを邪魔してしまうことがある。細胞や体が神からの力を受け取ろうとしているのに、人の怒りや悲しみ、恐れがそれを妨害してしまうんじゃ」
「ええ…」
「だからこの男の子、蒼馬くんと言ったか、に必要なのはこの恐ろしい場面から引き離して平和で穏やかな心境にしてあげることなんじゃ。そうしたらあとはこの洞窟の力が発動するのを待つだけじゃ」
「わかりました。でもどうすればいいか…」
「だからそこはおまえさんの力が必要だと思ったんじゃ。おまえさんだけが蒼馬くんの心をこの無限地獄のような幻覚から救い出せるんじゃないかと思ったんじゃ。どうじゃ、できるか?」
「やってみます」
雪音は即座に答えた。
自分がやらなければならないと感じていた。
ただそれを他人から伝えられただけのことだった。
「よかろう」
ヨルンバの声が響いた。
「ならもっと深く彼の見る幻覚の世界に降りて行って彼を救い出しておくれ。平和で穏やかな神の力に満ちた世界はわしが見せてやるとしよう」
そして近くからヨルンバの気配が消えた。
雪音はただ眼前の蒼馬と向き合った。
蒼馬はまたもや襲いかかってくる堅柳宗次を見ていた。
顔が恐怖で歪んでいる。
「蒼馬くん!」
雪音は呼びかけた。
蒼馬は気が付いてこちらを見た。
「雪音ちゃん?」
と声を挙げる。
「そうよ!」
雪音は心の声で叫んでいた。
「いまあなたが観ているものはすべて起こったことが生み出した幻覚なの!」
と続ける。
「でもいまはそこから離れなくちゃだめ!そうしなくちゃあなたは苛まれ続けて傷も治らない」
「でも無理なんだ!」
今度は蒼馬が叫んだ。
「堅柳宗次、彼の野望が俺からなにもかも奪っていった。俺たちの日常も層雲先生の命も、そして康太と加衣奈にもなにか悪いことが起こったと感じるんだ」
雪音は城の天守閣で彼の思念をうけとったときもそうだったが、最近の修練で発達した蒼馬の千里眼的能力に改めて舌を巻いた。
「それはそうだけど…」
と起こったことを明かせず言い淀む。
蒼馬の今の状態を考えたらこれ以上衝撃的なことなど言えなかった。




