第141話 第9章「狂乱の炎」その4
途端に北練井の街は慌ただしくなった。
実働部隊に割り当てられた兵員は蛇眼族、常人問わず急な指令に慌てたように訓練を始めた。
常人の一揆鎮圧に徴集されたことがある者が多いとはいえ、かれらすべての者にとって”北の大橋の向こう側”の戦闘であり、堅柳宗次の父が討ち死にした前回の侵攻作戦に参加した老兵はいなかった。
完全に武装した歩兵部隊が掛け声を上げながら隊列を組んで走っていく姿がよく街中で見られるようになった。
堅柳宗次が近々初戦に討って出るらしい噂が北練井城に飛び交っていた。
困惑したのは鈴之緒一刹ら北方鎮守府側の面々だった。
急いで確認を取ったが堅柳宗次ら先遣隊と本隊からは
「以前からの予定通り侵攻作戦を実行する」
との返答が得られただけだった。
一刹は改めて北方鎮守府側と慶恩から来た側との蛇眼族の軋轢を感じざるを得なかった。
側近の賀屋禄郎もそれを感じているようだった。
「信奉する宗派の違いがあるとはいえ、慶恩の都から来た方々は我々をよほど取り残すおつもりらしいですな」
珍しく憮然とした口調で禄郎は言ったものだった。
北練井城の中で堅柳宗次の侵攻開始の噂に反応しているのは北方鎮守府の人間たちだけではなかった。
その報を僧兵団長から聞いたとき、真叡教斎恩派の儀礼僧長・智独はしばらく畳の間で坐位をとったまま、考え込んでいた。
その後、智独は僧兵団長に口を開いた。
「つまり、侵攻開始の日を境に堅柳宗次は北練井を離れる、ということだな」
「そういうことになりそうです」
僧兵団長は畳の間の外側の廊下でひざまずいたまま智独に応えた。
智独は続けた。
「正直なところ、わしはあの男が苦手だ。あの男の頭の中は軍事のことばかりで、わしらが横で宗教活動するのが目障りで仕方ないらしい」
「そのようです」
僧兵団長も頷く。
「その堅柳宗次が北練井からいなくなる、となれば」
智独は続けた。
「我らも何の差し障り無く我らが本分を発揮できようというもの」
「そこでお話があります」
僧兵団長はぐっと体を寄せた。
「なんだ?」
智独は顔を僧兵団長に傾けた。
「蓮華之燈院のことです」
僧兵団長は声を潜めた。
「寺院に駐屯している我らの僧たちが隠し戸棚に秘められた多くの教典を発見したとのこと」
「ほう?」
「どうやら洞爺坊のものらしいです。彼が北方に出向いて入手したらしい文書もあるとのことです」
「なにっ…」
智独は驚き、興奮したような声を上げたが次の瞬間、妙に静かになった。
うつむいて顎に手をやり、頭の中で策謀を巡らす。
そして白頭巾の奥、無表情な目で待機している僧兵団長を手招きして再び近寄せた。
「もうすぐ堅柳宗次が“橋”を渡る。軍を率いてな」
「はい」
「我々はそれと同時に蓮華之燈院へ乗り込む。わしも一緒にな。すでにいる僧たちには連絡をとらねばな」
「はい。隠密に」
「いや…そうだな。成錬派の連中には事前にこちらの動きを悟られぬよう、隠密にする必要がある。だが一旦我らがことを起こした時は、より多くの成錬派にそれを知らしめる必要がある」
「はい」
「直前までは隠密に、いざ事が始まったら火が付いたように広がらねばならんのだ」
「はっ」
「すべての成錬派が己の宗派に拘り続ける限り、場合によっては血を見なければならんほどの弾圧を受けねばならんことをな。これからは北部もそうなるのだ」
「はい」
同じような返事を繰り返しながら僧兵団長はちらりと智独の、真叡教斎恩派儀礼総長にして神奈ノ国宗教界で第二位の権力を持つ老人の顔を見た。
権謀術数に長けた一面を持ちながら非常に感情的な、激高しやすい一面をも併せ持つ男だった。
現にいまも自分の発した言葉に酔って高揚しているのか、真っ赤な顔をしている。
ただ、いま儀礼僧長は成錬派に対し、場合によっては血を見る、とまで言った。
となると…




