第130話 第8章「侵攻の足音」その17
その頃草原蒼馬は多忙を極めていた。
蓮華之燈院には普段二人しか僧が常駐していない。
言うまでもなく。洞爺坊と層雲坊である。
しかも二人とも成錬派である。
成錬派はその教義の中に常人と蛇眼族の平等を掲げ、常人を奴隷のように扱うのを厳に戒めている。
数十年前からそのような宗派が北部において主流になったからこそ北部の常人は平和を享受してきた。
寺院の雑用をこなす寺男の草原蒼馬も平和を享受してきた一人であり、だからこそ寺男の仕事をこなしながらも北方鎮守府最高司令官の娘である鈴之緒雪音と机を並べて学問所の生徒にもなれたのであった。
だが、いま寺院に間借りしている状態の数人の僧は違う。
彼らは遥か南、慶恩の都から来た斎恩派の僧たちであった。
同じ真叡教の宗派とはいえ、上層部の僧たちによる蛇眼族の血統維持を絶対とし、常人をその特殊能力でもって統治すべきとしている宗派である。
従って彼らの蒼馬に対する扱いもそれ相応のものになるわけだった。
蒼馬にしてみれば雑用が増えたのと、侵攻軍と斎恩派の目がそこらじゅうに光っているので雪音と会ってまた蛇眼破りの修練を行えないのが残念で仕方なかった。
実際侵攻軍本隊が到着してから数日間、雪音と会えていない。
そんなわけで、そのときも蒼馬は夕方、「寺院の厨房で一人で忙しく立ち回りながら野菜と豚肉を切り、竈に鍋をくべて汁物を作りながら米も炊いているところであった。
そこに廊下から厨房を覗き込んで来た僧がいる。
「晩飯はまだかね?」
ぞんざいな物言いである。
蓮華之燈院にいわば駐屯している数人の斎恩派の僧の一人である。
ちなみに慶恩の都から来た他の僧たちも北練井や周辺地域の成錬派寺院にあまねく駐屯しているのであった。
その最高指揮官である斎恩派儀礼総長・智独は側近や僧兵とともに北練井城に滞在し、散らばった僧たちに指示を出し続けている。
「一人で忙しそうだが困るな、夜までに風呂にも入りたいからもうちょっと急いでもらわないと…」
「すいません。急ぎます」
と言って蒼馬はその比較的若い僧にちらりと視線をやった。
そのときだった。
蒼馬はその若くて小太りした斎恩派の僧の両眼が紅く光っているのを認めた。
蛇眼であった。
なんで、こんな何でもないことに…
そう思う間もなく蒼馬は軽く金縛りにかかるような感覚に襲われた。
きっとちょっとした遊び半分の思い付きだったのだろう。
その僧は蛇眼を保ちながらただ、
「急ぐのだ」
と言った。
「…はい」
とぼんやりした調子で蒼馬は力の抜けた返事をした。
不思議なことが起こったのは次の瞬間だった。
蒼馬は僧の蛇眼を見て全身の力が抜けたように感じたのだが、その次の瞬間には失われた全身の力がすぐ復活していくのを感じたのだった。
そのとき、
「なにをしているんですか!」
という声が響き渡った。
層雲坊が廊下の向こうから早足で近付いてきたのだった。




