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蛇眼破り  作者: 石笛 実乃里
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第13話 第2章「北の大崖と大橋と大壁と」その2

 北練井はそこが築かれたときは、兵士たちを長期間駐留させることしか念頭になかった場所ではあった。が、兵士やその周辺で仕事をする人々がそこを生活の場とし、数百年もの歴史が流れると、そこはもう普通の街と同じような賑わいを持つ場所と変わりがなくなってくる。

 ただ明らかに違うのは武人や兵士の数であり、さらに要塞としての機能を持たせた街の構造だった。

 一方で、例えば教育環境という点からみると北練井も神奈ノ国の他の都市も一見その制度は変わらないように見える。

 元々この国において学校や塾を開いたのは真叡(しんえい)(きょう)の神官たちである。その宗教ははじめ“霧の民”に伝わる信仰として長く伝わっていたと言われる。蛇眼族がこの世に出現してわずか十年ほど後には、それは彼らが統括する宗教へと変貌し、その後は国教としてほぼ五百年間、彼ら支配者たちの拠り所であり続けた。

 真叡教を蛇眼族の宗教へと変貌させたいわば中興の祖といわれる者は、“はじめの蛇眼族”のひとりとしても知られる(さい)恩坊(おんぼう)である。

 彼が真叡教斎恩派の経典として(のこ)したいくつかの書物において、その教義はすでに蛇眼族による人の世の統治を正当化するものであった。

 そして生まれ変わった教義を掲げた真叡教の僧侶たちは当然ほとんどすべてが蛇眼族の者であった。彼らは蛇眼族自身と、蛇眼を持たぬ被支配階級である常人にその思想を伝える場として彼らの寺院を機能させるようになった。

 そして彼らの思想を子供たちにも浸透させるために、寺院は学校や塾としての機能も持つようになり、それらはすぐに公の教育機関として認められるようになる。

つまり、神奈ノ国においては教育制度と宗教制度、そして支配制度は常に一体であった。


 そんな五百年程にも渡る状況に変化が生じたのはいまから(さかのぼ)って数十年ほどの間である。

 それは神奈ノ国、中津大島の北部、“北の大崖”と接する地方から始まった。

 蛇眼族の一員であり、真叡教の修道僧であった(せい)(れん)という名の男が三十歳代後半のとき北部の辺境地域にささやかな寺院建立計画を任されたことに端を発する。神奈ノ国の中央で秀才として一目置かれていた彼は計画通り小さな寺院を建設し、蛇眼族や常人に宗教活動を行いながら地域の住民、そしておそらく密かに北方と行き来する民と交流するようになる。

 通説では成錬は幾度も秘密の通路を使い、 ”北の大壁”を回避し“北の大橋”を渡らずに別の道を通って北方の王国へ渡り、そこへはるか昔に常人とともに渡った蛇眼族のもたらした知恵、神奈ノ国においては失われた幾多の知恵を密かに吸収したのだという。

 そして十数年も経つと彼の説く宗教は真叡教の本流からかなりの変貌を遂げたものになっていた。

 成錬は蛇眼族による支配の永続性や、自然の成り行きに(あらが)っているとも言えるその血統の維持を真叡教の斎恩派が執り行っていることに疑問を投げかけ、蛇眼族と常人との対等な関係による融和を説いた。

 その教義や主張にはあきらかに北の大峡谷の向こう側、北方からの知識や精神文化が流入していた。

 はじめ王都である慶恩に鎮座する真叡教総本山は北部からの分派の動きに対して寛容であった。というよりあまりに長く続いた統制に慣れ切ってしまい、まさか自らの身中から造反の火が点くとは想像すら出来ていなかった、というのが正確かもしれない。

 そして気が付いた時には、成錬は北部において真叡教のあらたな開祖として大師と呼ばれ、多くの儀式僧や修道僧が彼に傾倒し、成錬派と呼ばれる北部の一大宗派を形成していた。

 総本山はその時になってようやくこの一派の教義がいかに自分たちを否定しているかに気付いた。が、一方で相次ぐ常人たちの反乱に神経を尖らしていた慶恩の真叡教斎恩派上層部は、表立った蛇眼族同士の対立を起こすことを嫌い、北部に燃え広がった教義を穏便に鎮火させようと悩ましい努力を続けることとなる。

 成錬の教義に反対する王都の僧や学者たちは彼が禁忌であった常人の女性との恋仲となり、それを正当化するために新たな教義を北方から盗用し、でっち上げているに過ぎない、といまだに非難している。そのことに関しては北部の支持者の多くは根拠のない言いがかりと反発しているが、一部の支持者にはあながち嘘とも言えない、と思われてはいる。

 ともかく成錬は正当な教義への造反者として全ての布教活動を禁じられ、監視を付けられ辺境の寺院にずっと幽閉されたような状況となった。

 そして彼が不遇の内に七十年の人生を終えたとき、成錬派もまた消滅し、主流派たる斎恩派がふたたび北部宗教の実権を取り戻すはずだった。

 が、成錬の死後三十年経ってなお、成錬派の起こした炎は北部のそこかしこに燃え続けている。

 そこには北方の民に伝わる心的技術に対する羨望もあったかもしれない。心的技術とはすなわち蛇眼に対抗する蛇眼破りである。

 また真叡教斎恩派においては儀式僧とよばれる立場の者たちがいる。彼らは例えば霧の領域で大蛇のような異形の怪物や神獣を呼びよせたりなど、魔術や呪術に属する儀礼を行うが故に、それができない、もしくはしない修道僧とは一線を画していた。公的に認められた序列などは無かったが、儀式僧は何かにつけ一般の修道僧より上位の立場であるかのように振舞った。それはいわば暗黙の了解としての序列であったが、時が経つにつれ、真叡教団内において儀式僧にのみ与えられる権力や富というかたちで具現化することになった。

 一方で北方でも霧の領域において龍鳥などを呼び寄せる神獣召喚術のような呪術がある。

 真叡教団内でも儀式僧の専横ぶりを憎む修道僧や、儀式僧自身のなかでもそういった僧の差別化に疑問を抱く者もいたので、傲慢な儀式僧への対抗手段として北方で育まれた心的技術や呪術を渇望するようになったのは否定できない。

 そういった背景もあり、北の大崖の向こう側から影響を受けたとされる成錬派は消えることなく、むしろ成錬大師の後継者を秘かに自認する修道僧や一部の儀式僧たちにより、再び拡がりつつある気配を見せているのだった。

 それは北部の寺院群に、そして北部の各地域を統治する蛇眼族の諸家に、中央の都にいる支配者たちが考えるよりずっと深く影響を与えている。そんな北方の諸家の頂点に鈴之(すずの)()家がいるのだった。

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