第128話 第8章「侵攻の足音」その15
「それでは今の今からおもてなしの準備をしなければなりませぬな」
「申し訳ございませぬ」
智独がさっきとはうって変わった殊勝な様子を見せる。
さすがに今晩の宿と食事がかかってくると、ここで問題と災難を大きくしたくは無くなった様子であった。
「細かいことはこちらの僧兵団長に任せておるもので、彼と話し合って頂くと幸いです」
「わかりもうした」
洞爺坊が再び同じ言葉を返すと智独は一礼して再び付き人に介助され牛車に乗り込んだ。
牛車は軍列のなかに戻っていく。
堅柳宗次が崇禅寺武義に声を掛けた。
「おまえたち本隊も宿泊やら野営の準備が必要だろう。そんなところで仏頂面して突っ立ってる場合では無いと思うぞ」
「やれやれ。相変わらずおぬしは辛辣な物言いだな。だがその通りだ」
「では事前にお伝えしていた通り、ご案内していきましょうか」
賀屋禄郎がすかさず声を掛ける。
「かたじけない。お願いいたします。堅柳宗次よ、後でたっぷり話そう」
武義も一礼してくるりとこちらに背を向け、軍列に戻って行った。
こうして北練井の櫓門は開かれ、かつてないほどの大軍勢がこの北端の街に駐留することとなった。
鈴之緒雪音も軍列に同行して城に向かおうと踵を返した時、洞爺坊と目が合った。
洞爺坊も層雲坊に手伝ってもらいながら老体を動かし、そうしながら雪音に囁きかけて来た。
「雪姫様、斎恩派の僧団が来たからにはまた折に触れて血統維持計画という名の無理な縁談を持ちかけられることもあるかと思いますのじゃ。さぞかし不愉快かと思われますが、受け流してくだされ。今回はうまく話題が逸れましたがの」
「…お心遣いありがとうございます」
雪音にはそれぐらいしか言えなかった。
洞爺坊は横を進む歩兵たちの上げる砂埃の中で続けた。
「それにしても到着当日になっていきなり寺院をよこせとは…事前に言ったところで王府と総本山からの命令である限り拒否はできないものを。随分と侮辱的なものですな」
「大丈夫でしょうか…」
雪音が心配そうに訊くと、洞爺坊はまたいつものいたずらっぽい表情をして
「なあに。手は打っておりまする」
と答えた。
「それと…」
洞爺坊がまだ何か言いたそうな素振りを見せる。
「なんですか?」
雪音が尋ねると洞爺坊は一層声を落として彼女に囁いた。
「あの智独とかいう儀礼総長ですが、”龍眼”が使えるとの話を聞いております」
雪音はそれを聞くと反射的に身をこわばらせた。
「しかしながら私の見立てでは」
洞爺坊は雪音に囁き続けた。
「全然大したことはなさそうですじゃ。おそらく雪姫様のそれのほうが数段上でしょうな。あれでは成錬派の力をもってすれば簡単に“破る”ことができそうですじゃ」
老いた洞爺坊の腕を支えながら話を聴いている、まだ若い層雲坊の両眼が鋭く光った。
「まあ、そんな場面が来ぬことを祈るばかりですじゃ」
洞爺坊はそう言うとまたいたずらっ子のように笑った。
このようにして黒い大蛇のような大軍勢は北練井の街中に入って行った。




