第12話 第2章「北の大崖と大橋と大壁と」その1
ここまで読んでいただいたみなさま、本当にありがとうございます。
一旦公表してから2023年6月19日(月)、微調整のような設定の変更を行っています。
はじめ”北の大門”あらため”北の大壁”は”北の大橋”の南側のみにある設定でした。
その後、大門は南北両端にあったのだが神奈ノ国により南側のみ(つまり自国側)が塞がれ大壁になった、という設定にしました。
自分の橋を見てきた経験から、橋に門をつけるなら両端につけたほうがかっこ良くて美しいし、超高度な文明を誇った前史文明の人々ならそうするだろう…と思ったからです。
作者のわがままをどうかお許しください。
それではこれからも楽しんで読んで頂ければ幸いです。
列島世界で最大の面積を持つ中津大島は北東から南西へ、緩やかに南に張り出す弧を描きながら拡がる曲がった楕円形のような形をしている。
それを縦断しようと思えばいくら健脚な人が毎日朝から晩まで歩いても四ヶ月はかかってしまうだろう。
そして地図上は上、つまり北側の四分の一ぐらいでその巨大な島を分断する大峡谷が走っているのだった。
人はそれを北の大崖、とも呼んだ。その向かい合った巨大な崖はそのまま自然が作った国境にもなった。南側は蛇眼族が統べる神奈ノ(の)国、北側は蛇眼族の支配を逃れている蛮族たちの集落群、と南側からはそう言われている。
北の大崖が在るために一度に巨大な軍勢を敵の領域に動かすことができず、いままで南北で大きな全面戦争が起こったことはない。
ただもし本当に巨大な軍勢を一度に動かそうと思えば、それが可能な道がひとつだけある。
それが“北の大橋”だった。前史文明の時代に造られたといわれる巨大な橋が深い峡谷の両側を繋ぐようにかけられているのだった。
その橋はすべて石でできているように見えたが、実際は石とは違う何かでできているとも言われている。
それは峡谷の底を流れる、北芹河と呼ばれる幅の広い河の流れの中に橋脚を建てることもなく建っている。
直立する崖の側面から生えてきたように伸び始め、そこから橋の下面が上向きの弧を描いて大峡谷の反対側まで伸びてその切り立った側面と一体化するかのように取り付いている。
そうやって上面の平らな通路を支えているのであった。
見た感じは極めて単純で、巨大な石橋であった。
だがそこには前史文明の終わりとともに失われた高度な技術が用いられていると言われており、造られて後二千年以上経つとされているが崩れ落ちることもなく、ただそこに在り続けている。
そして同じ時期につくられたとされるのが、北の大門である。
それは大橋の両端、大峡谷の縁に築かれた、石造りに見える扉を持たぬふたつの巨大な門であった。
ただ、いま門として聳え立っているのは北方側のみであった。
南側、つまり神奈ノ国の側の門は塞がれ、“北の大壁”と化して向こう側へ渡る人は表向きはいないことになっているのだった。
記録上初めて北の大橋の上を多くの人々が北へ渡ったのは、もう約五百年も昔だった。それは常人とごく一部の蛇眼族であった、と言われている。そのとき北の大門は文字通り門であり、扉を持たぬその石造りに
見える巨大な門をくぐり、多くの人々が自らの足や馬を使って北の大橋を渡ったのだった。
そのすぐ後、南側の大門は人々の北への逃亡を禁じた蛇眼族によって、巨大で重い石を積んで固めることによって詰めるように塞がれ、“北の大壁”になった。
そこには神奈ノ国から北への逃亡を許したくない王府の思惑もあったのだが、それ以上に北から大橋を渡って軍勢が押し寄せて来るのではないかという警戒感もあった。
当初、北方の側の門も同様に塞ぎ、二重の障壁とする計画であった。
が、工事を始めようとしたとき、北に逃亡した常人と蛇眼族、そして神奈ノ国では”北方の蛮族”と呼ばれている王国の人々が連合し、塞ぐ作業を襲撃し、妨害して頓挫させたと言われている。
そのため北側の門だけが北の大門として残り、南側のそれは北の大壁、と名前を変えて残ることとなった。
このようにして二、三百年もするとそのような大工事をした記憶も風化し、ふたたび大工事をして壁を門に戻そうとする考えすら失われていった。
そうして北方から大軍勢が一気に襲い掛かって来る恐怖感は無くなったものの、逆に南側の神奈ノ国から北方の“蛮族の国”へ軍勢を送り込もうと思えば、この巨大な壁を乗り越えていく必要が生じた。
実際に大壁を乗り越えて軍勢を神奈ノ国から北方に送り込もうとする北方遠征の企ては大門の閉鎖以来五百年の間、百年前になってから四回為され四回とも失敗に終わっている。
その最後の企て、第四次北方侵攻から現在は二十八年経っているのだった。
そしてその“北の大橋”、の南端つまり神奈ノ国の側にあり、“北の大門”いまは“北の大壁”とつながるように要塞都市として建設されたのが北練井であった。




