第118話 第8章「侵攻の足音」その5
ともに列島世界を旅してくださっているみなさま、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
今年2025年はもうちょっとマメに投稿できるように頑張ります。
今年中に第1部を完結させることが目標です。
去年も同じようなこと書いてましたが…(汗)
ではこれからも楽しんで頂けると幸いです。 作者・石笛 実乃里より。
草原蒼馬が鈴之緒家の秘密の場所で、初めて雪音と“蛇眼破り”の修練を始めてから月日が流れていた。
それからも蒼馬は自分から望み、何度も訓練を受けていた。
彼らはいつも初めてのときと同じく、寺院の所有する畑で待ち合わせをした。
そして雪音が操る愛馬・風切丸の背に蒼馬がいつも後ろ側に乗せてもらって、いつもの森の中の秘密の場所に向かうのだった。
洞爺坊先生はどう思っているだろうか?
蒼馬はそれが心配になって雪音にそう訊いてみた。
「大丈夫よ」
雪音は風切丸の上で自分の後ろに座る蒼馬に向かって振り返り、微笑んだ横顔を見せながら答えた。
「先生にはわたしからそれとなく説明しておいたの。先生は察しのいい方だから、詳しくは説明しなくても理解して頂いたみたい」
「そうなんだ…」
蒼馬はいつも畑仕事をずっとしていたような顔をして昼過ぎに寺院に戻っていた。
畑にいたはずの時間の割に仕事量が少ない、と蒼馬は自分のことながら思っていたが、洞爺坊も、そして彼の弟子の層雲坊もそれに関しては何も言わなかった。
二人とも察してくれているんだろうか、と思う。
ともかくふたりはいつも森の中の秘密の場所に行き、訓練を進めていた。
初めてのときは庵の縁側で池の水面に両足をひたしながらだったが、季節が進んで水がさすがに冷たくなってくると、場所を変えることとなった。
ときには庵の中の板間で二人とも座って、ときには板間に敷物を広げて蒼馬がそこに仰向けになり、雪音が蒼馬の頭の横に胡坐をかくように座すこともあった。
そしてその日の訓練では、ふたりとも池のほとりにある大きな石に座っていた。
離れたところから見ると、若い恋人たちが木漏れ日のなかでぴたりとくっついて愛を語っているように見えなくもなかった。
そしていつものように雪音がいいわね、と念を押し、蒼馬がうん、とうなずきながら小さな声で言うとそれが合言葉であるかのように二人は目を閉じ、額を触れ合う。
そして蒼馬は雪音が彼女の想念で作り上げた幻覚の空間に飛び込んでいくのだった。
雪音の想念の世界はいつも殆ど同じだった。
蒼馬はまるで野ネズミかなにかのような原始的で小さな哺乳類となり、大蛇の攻撃に対応しなければならなかった。
はじめの二、三回は大蛇に睨まれた途端、野ネズミと化した蒼馬は凍り付いたように動けなくなった。
そして無残にも大蛇に食い殺されてしまうのだった。
そんなときはそこで仮想の世界に闇が落ち、突き落とされたように現実に戻って終了となる。
そして目の前にいる雪音が言うのだった。
「またあなたは凍り付くことを選んでしまったわ」
蒼馬はむきになって言い返した。
「自分で選んだわけじゃない!そうするように強制されたんだって!」
「そうね。そしてそれこそが蛇眼の正体なのよ」
雪音は汗ばんで呼吸が乱れている蒼馬を見つめながら静かに言った。
「それこそ目の前に大蛇が迫っているような危機に面したとき、獲物とみなされた生き物は色々な反応を示すわ」
「…反応?どんな?」
「立ち向かって戦おうとしたり、全力で逃げ出そうとしたりよ。そしてそんな反応の中に、ただそこに凍り付いたように静止して、死んだふりをしたり、相手の言いなりになったり、というのもあるの」
蒼馬は考え込んだ。
「ええと、その…人間、というか常人も同じような反応をするってこと?」
「その通りよ。人間はそんな原始的な生き物から進化していまの姿があるのを忘れないで。そして…」
雪音は右手を蒼馬の顔に伸ばし、彼の額に人差し指を触れた。
額と額を合わせたときのように、蒼馬は雪音の体温を感じる自分の部分が熱くなるのを感じた。
「わたしたちの頭の中には脳と呼ばれる臓器があるの。人のすべての思考や精神の活動はそこから生じると言われているわ」
「そうなんだ…」
「そして人間の脳は太古の時代、我々の祖先である四つ足の動物から受け継がれ、あらたに高度なはたらきを積み上げてきたと成錬派の教えにはあるわ」
「その、雪音ちゃんはその説を信じてるの?進化っていうか、人間は四つ足の動物から変化していったっていう…」
「そうよ」
雪音は真剣な表情でうなずいた。
「これは単なる一宗派の教義ではないわ。決して。事実であり真実なのよ」
「う、うん…」
「それでわたしの言いたいことは、」
雪音は続けた。
「人間の脳の奥底には祖先である動物の脳があって、蛇眼に対してその動物の脳が反応するの」
「でも、ちょっと待ってよ」
蒼馬は言い返した。
「さっき雪音ちゃんも動物の色々な反応のことを言ってたじゃないか。立ち向かったり、逃げたりとかさ。でも僕ら常人は蛇眼に睨まれるとそれこそ凍り付いたみたいになって、ただ命令に従うだけじゃないか」
「まさにそこなのよ」
雪音は熱を帯びたように話し続けた。
「蛇眼族も常人と同じく、進化の途上で産み出された種族のひとつだわ。ただ私たち蛇眼族は常人にはない能力がひとつだけあった」
「…それが蛇眼?」
「そうよ。蛇眼は見つめる先にいる者の反応を制限して、あるひとつの反応に追い込んでしまうの」
「凍り付かせて、言うがままにさせるような反応?」
「その通りよ。まるで蛇が蛙や野ネズミを睨んだときみたいにね」
蒼馬はうつむいて黙り込んでしまった。
胸の中に灰色の雨雲だけがいっぱいに広がっていくような感じがする。
「どうすりゃいいんだ…」
思わずそんな言葉が呟くように口を突いて出る。
蒼馬の表情をみて雪音もまた一瞬表情を曇らせたが、すぐに微笑んだ表情に戻って蒼馬の肩に軽く触れた。
「大丈夫よ。はじめから“蛇眼破り”がうまくできる人なんてそうそういないもの」
「そう?だれでも修行してできるようになるものなのかなあ…」
蒼馬が肩を落としながら言うと、雪音はさらに蒼馬を覗き込むようにして言葉を重ねた。
「わたし、思うんだけど…蒼馬くんはちょっと一所懸命になり過ぎだと思うの」
「…そうなの?」
「うん。わたし思うんだけど、常人の人が蛇眼に睨まれたときの反応って、ある意味自然な反応だと思うの」
「自然?凍り付いたようになって、ただ蛇眼族の言うことに従うことが?」
「うん。もちろん、そういう反応をするように強制されてるのは事実よ。でもそれはいくつもある自然な反応のうちひとつに誘導されているに過ぎないのよ」
「自然な反応…」
「そう。生き残るためのね。もしくは、生き残ることをあきらめたとき」
「あきらめた?生き残ることを?」
「そうよ。野ネズミやカエルは大蛇に喰いちぎられるとき、全身が麻痺してされるがままになるみたいなの。きっとかれら自身の頭脳がそういう指令を出すのよ。殺されるときの痛みや苦しみを少なくするためにね」
「そうなんだ…」
「自然な反応のなかにそういう選択肢もあるってことなの。そして蛇眼にかかると人はそういう反応しかできなくなる。そう誘導されるのよ」
「なんとなくわかるけど、じゃあどうすればいいんだろう…」
「まず自分の中に起こっている反応を受け入れて、それをただ観察するの」
「観察…」
「そう。戦うのは一旦置いてね。成錬派はそれを内観と呼んでいるわ。戦ったりもがいたりするのを一旦止めて、ただ自分の中に起こる反応を観察するの。そうすれば人には他の選択肢があることに自然と気が付くわ」
「他の選択肢?」
「そう。逃げたり戦ったり、相手をだましたり…まだいろんな選択肢があるし、自分はそれを自由に選べることに、ただ気付けばいいのよ」
「ただ気付けばいい…」
「そう。人は自由よ」
「そうなんだ…」
蒼馬はそう言われてもまだ頭の中ははっきりしない感じが残っていた。
頭ではわかっていてもまだ肚に落ちていない感じがする。
あたりまえだ、と思う。
まだ自分にはできていないのだから。
ともかく蒼馬は気を取り直して雪音の言ったことがまずできるようになるのを目標とすることにした。




