第114話 第8章「侵攻の足音」その1
ともに列島世界を旅してくださっているみなさま、本当にありがとうございます。
実は私は今、大学病院に入院中なのです。
パソコンの持ち込みと有料Wi-Fiが使用可能なので、こうやって投稿も執筆もできています。
ちょっと珍しくて難しめの疾患の検査入院であと数日は入院生活となりそうです。
でも必ず回復すると決めてるので御安心ください!!
ただ、私の遅筆のせいで今年中に物語の第1部を投稿するのが無理になってしまいました。
本当に申し訳ございません。反省します…
こんな頼りない私ですが、みなさまがこれからもともに列島世界を旅し続けて頂ければこれ以上の幸せはありません。
それでは今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。 作者より
北練井の秋は深まりつつあった。
北上中の北方侵攻軍本隊と北練井を本拠地とする北方鎮守府の間で、以前にも増して伝書鷹による通信は頻回に行われていた。
同時に神奈ノ国の北部に散在し、それぞれの領地を治めている武家からも続々と知らせはもたらされていた。
それらの情報を管理し、逐一北方鎮守府最高司令官である鈴之緒一刹に報告する役割を担っている賀屋禄郎に言わせれば、
「ほとんど悲鳴のようですな」
という知らせばかりであった。
三万人にも及ぶ蛇眼族とその従僕として扱われる常人たちが一斉に移動しているのである。
堅柳宗次が率いる小規模な先遣隊のように、食糧や消耗品を自前で運び、それでも不足する物資は行く先々の街で購入して四週間に及ぶ旅をしのぐ、というわけにはいかなかった。
慶恩の都周辺からの補給ももちろん確保されていたものの、それだけでは食糧や物資は予想外に不足した。
そこで本隊のとった手段は、詰まるところ駐留する各地に最も近い北部の武家に壮麗王からの命令書を突きつけ、有無を言わさず食糧をはじめとした補給物資を提供させる、というものだった。
これは武家の規模によっては即困窮する状況に追い込まれるほどのことだった。
そしてそんな彼らの批判的な言葉は王府ではなく、北方鎮守府に届けられるのだった。
北方鎮守府としても、北部に謀反の気配あり、と侵攻本隊から慶恩の都に報告されるのを良しとしなかった。
そこであえて彼らの不満のはけ口となり、猛烈な苦情のような報告をただ受け取る以外に無いのが現実であった。
ただ、彼らの報告にもうひとつ、北部諸侯にとっては非常に懸念すべきことが常に記されていた。
本隊には軍とその司令官とは別に、大僧団と彼らの指導者も旅を共にしているとのことだった。
僧団の指導者とは先日北方鎮守府に伝書鷹を遣わした真叡教斎恩派、儀礼僧長の智独という者だった。
北部諸侯からの訴えによれば、智独はすでに遠征の途上で接触したいくつかの武家の領地に部下である僧侶を複数人駐在させている。
そして斎恩派の布教活動に協力するよう、領主たちに半ば強制しているのだった。
そんな不穏な知らせを撒くようにしながら、北街道を巨大な黒い大蛇のようにうねりながら三万人にも及ぶ軍勢が行進し続けているのだった。
壮麗王と明擁教主の二人に侵攻計画本隊の僧団長に任命されたのは智独であったが、もちろん軍の最高司令官は別である。
その役割は結局八家門のひとつ、崇禅寺家の当主・武義に託されることとなった。
これには公に言われることは無かったが明確な理由がいくつかあった。
まず崇禅寺武義は堅柳宗次と並んで北方侵攻の積極的推進派であったこと。
それと他のいくつかの八家門当主と違い、金や兵員だけ提供して自身は北へ赴こうとしない者たちとは違った。
自ら北へ向かえるだけの武術、そして蛇眼の実力をもっていると評価されているのだった。
そして最も大きな理由として堅柳宗次との関係がある。
とかく取っつきにくい印象の堅柳宗次の指揮下に入り、したこともない軍事行動の先頭に立ち命懸けで北方侵攻を仕掛けることになる。
他の八家門当主たちのほとんどがためらいを覚えるのは当然であった。
その点武義は宗次とはそれこそ子供時代からの付き合いであったし、ともに常人の反乱を鎮圧した経験がある。
彼が北練井まで本隊を率い、その後宗次と合流して北方侵攻計画の片翼を担うのがごく当然と思われたのであった。




