第11話 第1章「北練井の学問所」その5
「でも、あなた昔こうも言ってたわね。いつか海に出たいって」
あえて話題を変えるように雪音が蒼馬に言うと、加衣奈が怖がるような顔をした。
「私は海なんか見たこともない生粋の北練井育ちだからわからないけど…海ってすごく怖い場所なんでしょ?ちょっと沖に出ただけで魔の海域っていうところがあって、すごく大きな海獣っていう化け物に船はぜんぶ壊されるって聞いたわ」
「ああ。おまけにその魔の海域が引き起こすっていう嵐と早い海流、幻覚やら、だろ」
蒼馬も言った。
「それで前史文明とかいうのが終わって以来、いつまでも列島世界の神奈ノ国は外の世界を知らないままってわけだ。まったく親父がどうやって船を操って北から密輸なんかできてたのか、訊きたいぐらいだよ。まあ、浅瀬伝いに小さい舟に乗ってたぐらいなんだろうけど」
「ちょっと。時々海辺を伝って物を運んでたってだけで密輸してたなんて決めつけるのは良くないわ。自分の父親を悪く言っちゃだめよ」
雪音が口をとがらして反論する。
「まあね。洞爺坊先生は僕の親父の死んだところに居合わせていて、親父のことも知っていたみたいだけど。先生は親父が密輸みたいなことをやってたのは事実だけど、それでも立派な人だったって言ってるんだよ。どっちにしても親父は死んじゃってるし、お袋も死んじゃってるみたいだから本当のところはわからないよ。先生もいまだに詳しいところまで話してくれないんだ」
蒼馬が言うと四人の間に少し気まずい空気が流れた。加衣奈には年老いているとはいえ両親が、康太と雪音には片親がいたからだった。
そんな空気を打ち消すように康太が言った。
「俺も海には行ってみたいな。まあひとりじゃおっかないから蒼馬が水先案内人ってことで」
「まさか。俺も海のことは全然知らないのに」
「海野って姓からしてご先祖様は海の仕事してたんだろう?」
「またそれを言う。全然知らないんだって」
蒼馬もいつものように返しながら、幼馴染に対する感謝の気持ちが湧き上がってくるのを感じた。蒼馬が海に出てみたい、という話をすると他の人間はたいてい否定的な反応をする。が、康太は茶化し気味ではあっても肯定してくれる。
雪音はそんな康太の将来に話題を振り向けた。
「康太は役所に入りたいんでしょう?」
「うん、まあ、そうなんだ」
康太は答えた。
雪音は康太の方を真っ直ぐに向き、問うた。
「役人になって政の世界に少しでも近づいて、この神奈ノ(の)国の状況を変えていきたいんでしょう?」
「うん、まあ、そうだね」
と見るからに聡明そうな康太にしては相変わらず曖昧な返答を続けた。
雪音は変わらず康太のほうを真っ直ぐに見つめていた。
蒼馬はそんな雪音の凛とした横顔とすっきりとした白い首筋を見てやっぱりきれいだな、と思い、会話と関係なくそんなことを思っている自分が恥ずかしくなった。
「蛇眼族が支配するこの世界の成り立ちを変えたいのでしょう?人の自由が認められる社会にしたいのでしょう?」
雪音が問い、加衣奈が思わず「しーっ」と口に人差し指を当てた。
北方総督の娘とはいえ、禁じられた言葉と思想が出てきたことに思わず反応してしまったのだった。
康太も初めは雪音の言葉に圧倒されたかのようだったが、次の瞬間には雪音をまっすぐ見つめ返し、
「まさにそれだね」
と言った。
「じゃあ私や私のお父様と目指すところは同じね」
雪音はそう言って微笑んだ。
「そう言ってくれると心強いよ」
康太は安心したようにふっと息をつきながら返した。
やっぱりこういうことはいくら幼馴染でも蛇眼族で北方総督である鈴之緒一刹の一人娘である雪音の前では言いにくいんだろうな、と蒼馬は思った。
たとえ雪音と一刹の鈴之緒家が常人に味方する“融和派”であったとしても。
そして康太には、役所に入るとかそういう安全なやり方で世の中を変える方向に進んでいってもらいたいものだと心から願った。
いままで幾度も起こり、その度に多くの血を流しながら潰された“反乱”などという手段でなく…。
そこで鐘がなる音がした。
「そうだ。洞爺坊先生が、国文学の必須項目が先週終わったから今日は久しぶりにみんなを外へ連れ出して見学をしたいとか言ってたな」
蒼馬が他の三人に言った。
「え、先生はいつそれおっしゃったの?」
雪音が訊く。
「ええっと、今朝だよ」
蒼馬は呑気に答えながら、立ち上がって着物についた草と土のかけらを手で払った。
他の三人はなんでもっと早く言わないのか、いつも呑気なんだから、といったことを愚痴りながら一緒に校庭の向こうにある平屋建ての塾舎に歩いて行った。




