第105話 第7章「森の中へ」その20
あれは……蛇?
その瞬間、蒼馬はふたたび落下した。
すべてのもの、すべての形と色がすさまじい速さで上へ流れ、なにも判別できなくなった。
一瞬見えた蛇のような恐ろし気な生き物も彼の視界から消えてしまった。
そして次の瞬間、蒼馬は地面に叩きつけられた。
地面?骨でも折れたかと思うほどの衝撃だったが、不思議と痛みはない。
ここは本当に地面なのか?
周りに見えるのは暗い森のようだった。
雪音と一緒に風切丸に乗って入った森に帰って来たのだろうか。
いや、違うようだ。
ここは沼地のようなところで、自分はそこから少し盛り上がった陸地にいるのだ。
陸地と言っても土くれの塊のようなところだけど…
蒼馬は立ち上がろうとした。
そして再び仰天した。
自分がなにか人間でないものに変わっていた。
短い褐色の毛に覆われ、か細い四つ足の生えたちっぽけな動物…尻尾も生えているかもしれない。
「ネズミか!?俺はネズミになっちまった!」
すっかり取り乱した蒼馬は叫んだ。
「近いけれど、すこし違うわ」
頭の中で雪音の声が響いた。
「あなたはこれから人間になる生き物。進化の流れを逆流したのよ」
「進化の流れ?」
「そう。人間だって元々けもののような存在だった。そこから環境に応じてからだのかたちを変え、その頭の中ではごく原始的な頭脳の上に積み重ねていくように複雑な頭脳を作り上げていったのよ」
「そうなのか…」
「蛇眼族にしても、そんな人間から偶発的に枝分かれした一種にすぎないわ。ともかくあなたはいま、原始的な頭脳しか持っていない、やがて人間になる生き物なのよ。そして気をつけて。あなたの敵がやってくるわ」
「ぼくの…敵?」
「そうよ」
なにか原始的な小動物と化し、うずくまっている蒼馬の目の前には沼が広がっている。
その濁った水面が波打ち始めた。
蒼馬は変わり果てた体をただ震わせながらそれを見つめた。
波はうねるようなかたちで大きくなり続けた。
そしてうねりが津波のように最大となったとき、その波の中からしぶきを上げてなにかが頭をもたげた。
「蛇だ…さっきの…」
蒼馬はただ呆気にとられ、自分のいまの体をひとのみにできるほどの口をもつ蛇の頭が自分に向けられるのを感じた。
「蒼馬くん、逃げて」
頭の中で雪音の声が響く。
蛇の両眼が紅色に燃え上がった。
その毒を含んだような眼光がちっぽけな体となった蒼馬を射抜く。
あれは蛇眼だ。
蛇眼族と同じだ。
蒼馬の体は金縛りにあったように動けない。
彼は自分の脳髄が蛇に巻き付かれ、締め上げられるような感覚に襲われた。
「動けない!」
蒼馬は叫んだ。
「落ちついて」
雪音の声が響く。
「あなたは自分の行動を選ぶことができるわ。蛇眼から自由になって。思うままに動いて」
蒼馬は自分の動物の体から汗がどっと噴き出るのを感じた。
蛇は両眼を紅色に燃やしたまま、巨大な口を開けた。
二股に分かれた舌がムチのようにしなる。
鋭い牙の列が迫る。
蒼馬を一気に喰いちぎり、ひとのみにできそうだった。
「落ち着いて。自由になることを選んで」
雪音の声が響き続ける。
蒼馬は目をつぶり、必死で念じた。
体を動かさないと。逃げないと。
だが体は動かない。動かすことができない。
「…動けない!」
滝のように汗を噴き出したまま、蒼馬は再び叫んだ。
「動けないのだとしたら、あなた自身がそれを選んだのよ」
雪音の声が響く。
蛇が迫ってくる。
「僕は選んでない!」
動けないまま蒼馬は叫んだ。
雪音の声が返ってくる。
「そうね。でもあなたの頭脳はいくつかある選択肢のうちからそれを選んだの。そうさせるのが蛇眼の仕掛けなのよ」
大蛇は一瞬止まると二股の舌を鞭打たせながら一段と鎌首を高く上げた。
そしてその鎌首を振り下ろすように蒼馬に襲いかかった。
一瞬にして動けない小動物である蒼馬の体が喰いちぎられる。
「うわあああ!!」
蒼馬は絶叫した。
そこまでだった。
次の瞬間、闇が落ちてきてすべてを覆った。
なにも見えなくなった。




