第103話 第7章「森の中へ」その18
「この方法は何も道具とかを使うわけじゃない。ただここみたいに静かな場所が必要なだけなの。蛇眼族のわたしが常人のあなたの心のなかに入って、いわば蛇眼のからくりを見せるの。あなたは蛇眼をかけられたときに自分の心になにが起こるかを知り、それを自ら制御することができるようになるはずよ」
「そうなんだ…」
蒼馬は考え込んだが、すぐに唇を嚙むように口を引き締めて雪音を見つめた。
「いまからでもできるって言うなら、早い方がいい。いまからやってほしい」
「ええ。じゃあこちらを向いて」
蒼馬は座ったまま両手を縁側に突き、体をやや捻って雪音のほうを向いた。
「私の目を見て」
雪音の言葉に蒼馬は従った。
雪音の瞳の奥に小さな紅色の光が宿った。
蛇眼族が強制的に常人を服従させるときに見せる、邪悪なまでに冷たく燃え上がるような紅色の光ではなく、もっと柔らかで暖かな印象さえ与える光だった。
雪音によって完全に制御された蛇眼の使い方であった。
蒼馬はそれを見つめるうち、自分の意識がぼんやりとしてくるのを感じた。
「目を瞑って」
雪音に言われるまま、蒼馬は両目を瞑った。
「こうかい?」
「そうよ。これからは静かにして、自分の呼吸に集中して。心を静かにするのよ」
蒼馬はその通りにした。
雪音は蒼馬の心が静けさに沈んでいくのを見て取ると、自分の顔を蒼馬の顔にゆっくりと近づけていった。
とうとう雪音と蒼馬の額が触れ合う。
蒼馬は両目をつぶりながらも額から全身になにか小さな稲妻のようなものが走るのを感じ、びくっ、と身を震わせた。
だが彼のぼんやりとした意識は覚醒の方向に戻ったりはしない。
いつもの蒼馬なら飛び上がった後で顔を真っ赤にして恥ずかしがるような状況である。
いや、むしろ変わらずゆっくりと、霧の領域にも似た曖昧な意識の世界へと彼は沈んでいく。
——これが蛇眼、いや雪音ちゃんの“龍眼”の力なのか…
初めて蛇眼、いや龍眼の力に触れる蒼馬は、まるで他人をみているようにそう感じるのだった。
「だいじょうぶ。安心して。力を抜いて。完全に力を抜くの…」
そんな雪音の声に誘われ、蒼馬の意識は深海に潜るように暖かくも暗い幻想の世界へとさらに沈んでいった。
堅柳宗次は北の大橋の上を歩き続けた。
白く、幅のとても広い通路は一度に多くの人員が渡るのに十分なほどだった。
ここをすぐに大軍が渡っていくことになる。
宗次は心の中で自分に言った。
その先頭に立ち、軍を指揮するのは私、堅柳宗矩の息子、堅柳宗次だ。
長い橋の真ん中を過ぎ、宗次はふと立ち止まり振り返った。
佐之雄勘治たち宗次の部下が北の大門の向こう側にとても小さく見える。
宗次は彼らに向け、手を振った。
勘治がそれに応え、手を振り返すのが見える。
「どうだ!」
宗次は自分の歩き始めた側に向かって聞こえるように大声を張り上げた。
「橋はわたしを焼き殺したりはせぬぞ!」
勘治に声は届いたらしく、彼も両手を口の横に当て、大声を返してきた。
「宗次さま!無理をなさらないでください!今日のところはそこで戻ってきてください!」
「なにを言う!」
不敵に笑ってみせながら宗次も大声で返した。
「わたしは北の大崖の向こう側にまで行くぞ!北方の地を踏むのだ。帰るのはそれからだ」
宗次は再び前を向き、ずんずんと早く歩き出した。
お気をつけて、と叫ぶ勘治の声が聞こえて宗次は前を向いたまま再び片手を上げて振った。
手を下ろすと一心に歩き続ける。
勘治たちが恐れるのもわかる。
宗次は思った。
“橋”には前史文明の神だかが宿っており、気に入らぬものが渡ろうとすると焼き殺してしまうという言い伝えがあるのだ。
それが本当かどうかはわからないが、実際にこの橋は未知の強大な力を発動し、北の大壁と呼ばれていたものを実に精巧に元の“北の大門”へと戻してしまった。
これを見れば確かに誰しもこの古より在る巨大な橋を畏れるだろう。
だからこそ、わたしがまず率先してこの橋を渡り、大軍勢を率いての北方侵攻が可能であることを証明しなければならないのだ。
宗次はひとり橋の上を歩き続けた。
向こう側の大門が徐々に大きく見えて来た。
ここからだとその両側に延々と続く、垂直にそびえ立つ褐色の大岩壁も見える。
列島世界を南北に分断する北の大崖だった。
北側の大門は、南側にある神奈ノ国側の大門とまったく同じかたちをしている。
ただ北側のそれは南側と違って塞がれたことはなく、太古の昔より開き続けている。
周辺に人の気配は感じられなかった。
もし北の蛮族が待ち伏せていたら?
宗次の頭に一瞬懸念がよぎったが、そのときは全速力で走って逃げ戻ることにしようと心に決める。
とうとう北方側の大門の下にたどり着いた。
そこで北の大橋は終わり、北方の大地がはじまる。
今日は北方の地を踏み、それから生きて帰るのだ。
宗次は大きく息をひとつすると、白い大門を抜けて行った。




