九
小柴美也はお茶の水にあるオフィスの休憩スペースで食後のコーヒーを一口飲むと、目の前で大きな欠伸をした斉藤隆を見てため息をついた。目の前には隆が書いた記事の原稿が乱雑に置いてある。
「それで? その記事ボツになっちゃいましたけどこれから何書くんです? あと三日しかないんですよね?」
「あーそうねえー」
隆は煙草の煙で輪を作り、ポワンポワンと上に吐き出して遊んでいる。
「まったく、フリーランスになったんだからしっかりしてくださいよ。そんなんだから同期に置いてかれちゃうんですよ」
「いいじゃないの別に。俺は出世には興味無いの。俺みたいな冴えないオッサンがこうして楽しく美也ちゃんと食後のコーヒー飲めるなんてそれだけで贅沢な話だよ?」
「そりゃ別にけっこうですけど。このままじゃ私の仕事も無くなっちゃうじゃないですか」
「そうねえー」
「転職しようかしら」
美也が再びため息をついた時、向こうから血相を変えて中林悟が走って来た。
「たっ大変です斉藤さん!」
「ん?」
「例の斉藤さんが特集書いたNFTゲーム! 高額帰還者が出ました!!」
「うおっ! 来たか!!」
「何でしたっけそれ? NFT?」
「編集長が斉藤さん呼んでます! すぐ一面で続き書いてくれって!」
「よっしゃ! 行くぞ美也!!」
「え? あっはい」
疾走する二人に疑問符を浮かべながら美也もついていった。
編集長は隆を見つけると指差して叫んだ。
「さ、斉藤君! 来たぞ! さっきから君の記事の続きを見たいって電話が止まらんのだ! うちで書いてくれ! いいな!?」
「もちろん! すぐ書きます!」
「隣のブースを押さえてある! そこ使ってくれ!」
「了解っす! 美也、アパート行って着替え持って来といてくれ!」
「はい」
美也は隆の部屋の鍵を受け取ると、隆がブースに入ったのを見届けてから中林に声をかけた。
「あのー中林さん」
「ん?」
「そのー私には何の事やらさっぱりなんですけど説明してくれませんか? あの人の着替えは後でもいいし。ゲームの事はいまいちで」
「ああいいよ、じゃそこ座って。コーヒー飲む?」
「あ、さっき飲んだので大丈夫です」
悟は頷いて自分のコーヒーを入れてデスクに座り、美也にも椅子をすすめた。
「NFTっていうのは分かる?」
「えと、確か非代替性トークンとかいうやつでしたっけ」
「そう。その単語を聞いてもよく分からないよね。じゃあさ、デジタルのお金ってあるよね?」
「電子決済の事ですか?」
「ううん。スマホとかを使ってネット上でお金のやり取りをするのが電子決済。パソコンで通販サイトを覗いてクレジットカードから引き落としでも電子決済はできるよね。でもデジタルのお金は円とか実際のお金じゃなくてもいいんだ。例えばエムちゃんコインは知ってる?」
「一時期話題になりましたね」
「うん、アパレル業界大手のエムちゃんショップで使える電子マネーだ。例えばエムちゃんコインを一枚買うのに百円かかるとする。美也ちゃんが千円払ってエムちゃんコインを十枚買うと、エムちゃんコインが美也ちゃんのデジタル上の財布に十枚入る。それを使ってエムちゃんショップで買い物できるわけ。この服はコイン一枚、あの服はコイン二枚って感じで」
「まあ、そうですね。それがどうかしたんですか?」
「じゃあ美也ちゃんが持ってるエムちゃんコイン一枚とさ、僕が持ってるエムちゃんコイン一枚は同じ価値かな?」
「そうですね。デジタル上のお金ですから。現実でも千円札を二枚並べたらその二枚は同じ価値です」
「そう。エムちゃんコインのように、デジタル上でお金として価値がある物をトークンと呼ぶ。暗号資産の事だ。そしてエムちゃんコインはそれぞれが同じ価値のトークン、交換しても支障がないトークン、つまり代替性のトークンだ」
「という事はえーと、エムちゃんコインは代替性トークンで、NFTは交換ができない、つまり代えが効かないトークンのことですか?」
「その通り。代替性がないトークン、だから非代替性トークンだ」
美也は頭を掻いた。
「ちょっとよく分からないですね。代えが効かないエムちゃんコインがあったとしてもそれをどう扱っていいものやら」
「別にコインじゃなくてもいいんだ。例えば有名な野球選手のグローブってあるでしょ? サインが入ってるやつ。あれと同じグローブだってもともとお店に売っているよね?」
「まあ選手もお店で買ったグローブなんですからそうですよね。後からその選手のモデルとか言って売るパターンもありますが」
「そう。同じグローブが十個あっても野球選手がその中の一つにサインを書くとそのグローブは代えが効かないグローブになる訳だ」
「はい……あ」
「そう。デジタル上で同じ物、例えば同じ絵の画像が十枚あっても、画家のサインが入っている本物は一つだけだとしたら?」
「代えが効かないトークンになる……」
「その通りだ。細かい説明は省くけど数年前、デジタル上の物にも本物を証明するサインのような物を埋め込む技術が誕生した事によってNFTが生まれたんだ」
「ふーんそうなんですか」
「まあ普通はそういう反応になるよね。まあとにかく最初は投資家がそういったNFTに目をつけていろいろ買っていましたっていう所まで分かればとりあえずオッケーだ。で、ようやくNFTゲームの話になるんだけど」
「お、ついに戻って来ました」
「ゲームの中のアイテムをNFTにしてリアルマネーで取引できるようにしたんだよ。レアなアイテムなんかが実際にお金で取引されるゲーム、それがNFTゲームだ」
「へえー。でも前からそれありませんでした? レアアイテムをこっそり売ったりしてましたよね」
「うん、でも今回のはそのゲームだけじゃなくて、そのゲームを提供しているバーチャルな空間の中ならどこにでも持っていけるんだ。デジタル上の靴とか服とかを買って、それを着て他のゲーム内に遊びに行く事もできる」
「へえーそうなんですね。デジタルで唯一の物を持つ事ができるようになったって事ですよね。でもそれが今回の話とどう繋がるんですか?」
「今回のNFTゲーム、『メリーゴーラウンド』では現実の南米に模した架空の都市、メリー市で生活をするゲームだ。メリー市の中は高度なAIで動く脇役市民と、本物の人間が潜り込んだ市民とでリアルタイムで生活する」
「確か麻薬カルテルがいる街ですよね」
「そう。高度なAIで動く犯罪集団という設定の中に本物のプレイヤーが混ざる事で、簡単に巨額の取引に手を出せるようになっている」
「え……でもその麻薬の取引とかって犯罪ですよね? 大丈夫なんですか?」
「ゲームの中の犯罪だ。実は本当の犯罪ではない。いいかな」
悟はコーヒーを一口飲み、ここからが大事だと言わんばかりに座り直した。
「プレイヤーは本物のお金をまずメリー市の中で使える通貨、メリコに変換する。参加料を払って『メリーゴーラウンド』に参加するんだ。そしてゲーム内で色んなアイテムをメリコで取引する。生活するゲームだからゲーム内の仕事で稼ぐ事もできる。ゲームの中だから犯罪行為で稼いだっていい。例えば銃を買ってそれで強盗に入る事もできる。強盗を捕まえに来る者は警察のAIとプレイヤーだ。しかしプレイヤーは賄賂をもらって強盗を見逃してもいい。全て本人の自由なんだ。ゲームの中で自由にメリコを稼ぐ事ができ、自由に物が買える」
「なんか……無茶苦茶なゲームですね。じゃあ皆犯罪者になっちゃうんじゃないですか?」
「ところがね……このゲームは一度しか挑戦できない。一度死んだらそれで終わりなんだ」
「一度だけ?」
「そう。そして死ぬとメリコを全てロストしてしまう。プレイヤーは百メリコ持ってスタートするが一メリコはだいたい一万円だ。約百万円を払って参加し、生還できなければ全て無駄になってしまう」
「ゲーム内であまり派手に動いてやられてしまうと元も子も無いってことですね」
「そういうこと。地道に金を稼いで元を取ろうとしている人もいる。さっきの話に戻るけど、麻薬っていうととんでもない話に聞こえるでしょ? でもね、ゲーム内の麻薬だからただのアイテムの一つなんだ。麻薬はNPCが高値で買ってくれる。そうなると麻薬を巡って他のプレイヤーやAIと抗争が起きたりする危険がある。危険を冒さないと手に入らないアイテムだから価値が高くなるんだ。そしてね、生還して持ち帰ったアイテムは他のバーチャル空間でも使えるし、持ち帰ったメリコはなんと登録された他のネットショップで使えるんだ」
「え!? じゃあもし大量のメリコを稼いで生還したらものすごい大金持ちになっちゃうんじゃないですか!?」
「そうなんだ。それが今回の話だよ。マックスっていう名前で一週間程『メリーゴーラウンド』をプレイしていた日本人の中学生が、ゲーム内のレアイテムの裏取引に使われたジュラルミンケースを持って生還したんだ。もっとも取引自体は失敗して、レアアイテム自体は入っていなかったんだけど。だがそのケースの中にはまだ一万メリコ残っていた」
「一万……? え、ちょっと待って」
「中学生が手にしたアイテムの価値は一億円、だ」