★23★ 一匹、未知の恐怖を知るまであと――。
――敵を知り己を知れば百戦危うからず。
マリの世界では有名だったという格言を元に、蟻への理解を深める勉強会と、それに伴い必要になるであろうアイテムを買い漁ること二時間。
蟻という生き物は学べば学ぶほど意外と奥深い生物だった。夏休みなるものの子供の自由研究に蟻の巣キットが選ばれるのも納得だ。コロニーを形成する能力は動物に勝るとも劣らない。半分ハツカネズミの身としては、うかうかしていられないところだ。
「中古だから心配してたけど、前の持ち主が比較的綺麗に使ってたみたいだな。新聞配達用の50ccだけどボアアップしてあるから、最高速度はちょい上がってるか? その分耐久性は下がってるけど悪路には多少耐えるだろ」
そう言ってご機嫌のマリがフリマアプリで購入したそれを撫でる。黒いコーティングを施された厳つい鉄の塊。前後に車輪のついているそれは、走っている姿こそ見たことはあるものの、馴染みはまったくない。
「あの、マリこれは……確かマリの世界の乗り物ですよね」
「そうそう。前に転生二周年のご褒美で行った時見ただろ? 二輪免許があると職種の幅が増えるから、食費ケチって一種取ったんだよ。維持費が払えないから単車自体は持ってなかったけどさ。本当は二人乗りしちゃ駄目なんだけど、異世界だし。忠太も後ろに乗せて走れるぞ」
やや早口に弾む声でそう言うマリは可愛い。ただその内容はやっぱり少々聞き捨てならないものがあるが。この華奢な乗り物の後ろに乗るのは不安しかない。でもこの分だときっと前世で本当に欲しかったものの一つなのだろう。
隅々までうっとりとした視線で眺められるそれに、彼女の守護精霊としてほんの少し嫉妬してしまいそうだ。
蟻の歩く速さは一秒間に十センチメートル。時速三百六十メートルの速さ。 蟻の体長を一メートルと仮定すれば、単純計算でその速度は時速三十六キロメートルにもなる。乗用車並みの速さだ。
でも実際は外骨格が重くなるので、大型化するほど遅くなりカタログデータになると思われる。その点を考慮してのこの黒い二輪車だ。通路は大型の蟻達が二匹すれ違うのがやっとの広さだし、追いつかれることはまずないだろう。
次にマリは車輪のついたそれとは別に注文した箱の中から、二色の丸いものを取り出した。そして両手にその丸いものを持ってこちらを振り向く。
「警察いないけど危ないからヘルメットはかぶってないとな。ちょっと今の忠太には大きいかもしれないけど。黒と深緑だったらどっちが良い?」
「あ、じゃあ黒で……」
そう答えれば「いつもの忠太の色と真逆だな」と笑って、手に持ったそれをかぶせてくれた。けれどすぐに少し隙間があって不安定だと感じたのか、タオルを詰めて調整してくれる。その間もずっと子供みたいに楽しそうなマリの表情から目が離せない。
「いやー、こっちの世界だと説明面倒だし、ガソリン手に入らないしで走らせられないから、だいぶ久々だな。まぁでもここ出たら使えないから、またフリマアプリで売るか、ポイント消費して処分するしかないのが惜しいけど」
「残念ですが……そうですね。けれどまたどこかで乗る機会もあるかもしれません。その時は、もっと良い状態のものを購入しましょう。ね?」
どう慰めて良いものか悩んだ割に出てきたのは、当たり障りのない言葉。歯痒い気持ちで背負ったリュックの肩紐を握る手に力が込もる。でもそんな拙い慰めにも、マリは八重歯を覗かせてはにかんだ。
「ふふ、だな。でもこんな時じゃなかったら、デカくなった忠太の背中に乗る方が好きだわ。ふわふわで乗り心地良いもん。ただほら、トリックスターの称号があるのにそれらしいことしないのも勿体ないだろ?」
嬉しさと一緒に感じるのは、少し肩に食い込むリュックの重さ。中身は大量の爆竹と、打ち上げ花火に発煙筒。腰のベルトには、お酢入の水風船と夜行塗料入の水風船がずらりとぶら下がっている。
わたしの仕事はマリが安全に二輪車を運転出来るよう、これらを使って蟻達を撹乱することと、この辺りを漂う小さい神様の声を聞いて、素材になりそうなものが貯蔵されている部屋へナビをすることだ。
蟻は耳を持っているが、基本的には基質振動を感知しているらしい。脚一本につき二つ耳がある。脚は六本、そこに加え触角にもそれぞれ聴覚器官があるので、計十四個の耳があることになる。これを惑わせるために使うのが爆竹。
視力はそこまで良くはなく輪郭が分かる程度なようだが、太陽の光だけはどれだけ微かなものであろうとも分かるらしい。
ちなみに蟻は嗅覚が人間の四十倍あり、今のわたし達の全身からはハッカ油の入った虫除けスプレーの匂いがしているが、これは蟻が苦手とする香りだからだ。お酢もこれに入る。というかこの匂いは、普通に人でも蟻でもハツカネズミでも苦手なんじゃないかと思う――が。
「それじゃあそろそろ行くか。シートの後ろの方に乗って忠太」
「あ、はい。でもまさか駄神の嫌がらせで、人化しても子供の姿にしかなれないなんて……こんな時に役立たずですみません、マリ」
ふと先程自分の身に起こった悲劇を思い出して項垂れる。ポイントを消費して人型を取ろうとしたところ、何故か最初に人化した時の子供サイズにしかなれなくなっていたのだ。
低い身長に高い声、短い手足に相応しい非力さ。こんな姿でも一応攻撃魔法と治癒魔法を使えるのだけが救いか。
「いいってばそんなの。十歳くらいの忠太可愛いし、後ろに人を乗せて運転するのは初めてだからちょうど良いよ。何よりこうやって見るとさ、頑張って強くなってくれたんだなって分かってちょっと感慨深い」
「そ、そうですか? だったら嬉しいです」
我ながら単純だとは思うものの、彼女にそう言われただけで萎れていた気分が幾分上向くけれど――。
「そうそう大丈夫、忠太は私には勿体ないくらいに凄い精霊だ。駄神の嫌がらせなんかで価値が変わったりしない。だから――死ぬ気でしがみついて振り落とされるんじゃないぞ?」
続くその言葉の真の意味に気付いて顔色を失くすまで、あと少し。