第二話 ハラペコ魔王
今にもバラバラに取れてしまいそうなページを捲る。
蝋燭の薄明かりに映る記号はアルムの知らないものばかり。
文字というよりは無作為に筆を走らせた跡のようで、かと思えば執拗に似た形を繰り返していたりしていて一貫性が無い。
眺めているだけで書き記した人物の憎悪に触れている錯覚に陥る。
魔道所よりいっそ呪いの書といった趣である。
なぜスノウはこのような物を自分に託したのだろうか。
暗号だとしたら悪趣味だし、嫌がらせだとしても陰湿にすぎる。
一通り捲って、最後にスピンが挿しこまれたページに戻る。
唯一アルムのわかる言葉が記されたページ。初めから挿しこまれていたから、つまりスノウが最後に読んだのはこのページだった可能性が高いという事になる。
ボロボロの本の中でもとりわけ傷んだ見開きだった。
『私の悔いをここに。
本は言葉が折りこまれた祈りである。
祈りが雨だれ。ならば悠久の時がやがて閉じられた巌の扉を穿つ時も来ようか。
どうかあなたたちの祈りが彼女の目眩く未来を願うものでありますよう』
滲んでもなお端正な筆遣いで描かれた文字は女性の物だろうか。
しかしスノウの文字とは違う気がする。
このページだけは読んでいて嫌な感じがしない。
さら、と紙を撫でながら気づく。
「・・・・・・どうしてこのページが一番ボロボロなんだ?」
漉いている素材自体は恐らく同じもの。しかし他のページが見た目の印象に比べて劣化が酷過ぎる。
しかし文章から察するに、恐らく本文と同時期か、あるいはむしろ本文が出来た後にこのページを書いたとするのが自然である。
第一の可能性としては、単にこのページが開かれる機会が他より遥かに多いため。
しかし、それにしては特有の折り癖が少ない。
では第二の可能性としては。
――初心に戻ろう。
これは魔道所である。
肌触りからして漉かれた素材は恐らく同じ。
ならば紙の状態を左右する要素としてまず考えられるべきはこのページのみ種類の違う魔法が掛かっている。ないしはその逆。
「もしかして『閉じられた』は『綴じられた』。『めくるめく』は『めくる』の言葉遊びか」
暗号としてはやや稚拙である。にもかかわらず未だ内容が解かれていないのは。
「もう一つの鍵は時間・・・・・・か・・・・・・?」
本という媒体自体が一瞬ブラフであり、「読み取る」必要がないのだとしたら。
この本を端から全部捲るだけの行為を、何度も何度も繰り返す必要があるのだとしたら。
人一人の人生では追いつかない程に。何度も、何度も。
「・・・・・・」
ばらばらと、ページに息をさせる。
それを何度繰り返しただろうか。
蝋燭の長さもすっかり頼りなくなっていた、
やはり違ったのだろうかと不安になった頃に、ページの文字が変わっていることに気付く。
『我が子らよ。彼女への祈りを感謝する。
しかし、彼女が我らを愛するとは限らない
人々はあまりにもひどい仕打ちを強いた。
彼女は、傷ついている。私が、傷つけてしまった。
魔王という役割に囚われた、ただの少女を』
「魔・・・・・・王・・・・・・?」
思わず笑ってしまいそうになる。
怪奇小説の演出としても出来が悪い。
そもそも、目の前で繰り広げられているのは紛うことなき幻想である。
いつしか灯りは消えていて、だというのに文字は読める。ぞっとした。
『彼女は絶望に怒り、我らを滅ぼすかもしれない。
これは聖職にあるまじき人類への叛逆。それでも私は彼女の未来を望む。
私は彼女への愛を、なにより彼女の愛を信じている。
彼女を、救ってほしい』
最後の文字は余程焦って書いたのかかなり荒っぽくなっていた。
止まるならここだぞ。お前は禄でもないものを喚ぼうとしているのだぞ。
――暴虐の魔王。
お伽噺となった魔族との戦乱。しかし、唯一彼の名だけは別格だ。
悪いことをしたら暴虐の魔王が攫いに来るよ。とはこの国の子供ならみんなが親から訊かされる脅し文句である。
悪と不条理の代名詞。歴史上もっとも多くの命を弄んだ個。残虐にして悪逆非道。捉えた人間の生皮を剥ぎ、臓腑を浸したスープを啜る。頭蓋骨をくりぬいて脳味噌をプディングのように食指、生血で満たした湯船に浸かる。ただ快楽のために同胞の犠牲すらも厭わず殺戮を行う暴君。魔族にすら畏怖される真性の魔。
「それをコイツはただの女の子って言うのかよ」
伝承が脚色されていたとしても、暴虐の魔王が多くの人の命を奪ったのは事実である。
聖職者がその救済を謳ったのだとしたら、その人物がどのように処罰されたのかは推して知るのもおぞましい。
きっとこの本は、人一人が命と引き換えに記され、そして連綿と受け継いできた誰かの命を吸い取ってここにある。
「イカれてる・・・・・・」
きっと誰もこの責任を背負いきれない。しかし託されたのだから放り投げることも出来ない。
どうしようもなく、重過ぎる。
なるほど、こんなものを抱えて生きてきたスノウ婆さんからしたら俺はいつまでたっても「アル坊」だったわけだ。
ハハ。とアルムの口から乾いた笑いが漏れた。
「ああ、俺もきっと・・・・・・」
助けてほしい。とこの本の主は祈った。
このページの向こうに不条理に泣いている女の子が居る。
それも、千年以上前から人類に殺され続けている女の子だ。
「こいつにイカれちまうんだろうな」
アルムは震える声で嘯いた。
見なかったことにするには臆病すぎて、見捨てるには人が好すぎた。
何も考えないようにしてページを捲る。
はらはらと、大事な何かと共にページが抜け落ちていく。
『ありがとう』
そう、短く書かれた紙が最後に舞った。
散らばったページがひとりでに地面に整列する。
淡く燐光するマナの筋がページとページを繋ぎ、魔法陣を描く。
その中心に、光の粒子が集積し、次第に人型を形作られていく。
頭を垂れ膝をついた少女。その背中からは血塗られた鋼の輝きが不格好な形で生えている。
聖剣。矮躯を貫く伝承の武器は神々しいというより、ただただ痛ましい。
銀の髪の隙間から覗く貌からは、千年の苦痛に耐えながらなお気品が伺える。
笑ったらきっと素敵だろうな。なんて間抜けな考えが過る。
「悔い・・・・・・杭か・・・・・・これが」
魔王を縛り付ける最後の楔。
邪魔だ。と思った。
女の子を苦しめるような道具が、聖なるものである筈がない。
柄に手を伸ばす。
聖剣と呼ぶには無骨に過ぎる肌触り。
「我はマオ。暴虐の魔王なるぞ。気安く触るでない」
凛然とした声音。それほど大きな声で無かったのに、アルムは驚きすぎて尻餅をついてしまう。
見上げれば、血より宝石よりなお紅く輝く二つの瞳と目が合う。
「呪いが枯れたと言えどこれはかつて聖剣だった物。千年を共に過ごした友。ならばこの柄を馬の骨に触れさせるにはいかぬ。人の子よ身の程を弁えよ」
少女は聖剣の刃を握ると、血が噴き出すのも、すごく嫌な音がしているのも厭わずにその身から引きぬいていく。
瞬く間に寝室に充満する濃厚な血液の臭い。
思わずアルムは口を押えてえずく。
「どこかで鞘を誂えねばならぬな。そなたに見合うものがあればよいのだが」
少女――いや魔王が剣に語りかける口調は気位の高さこそそのままではあるが、アルムに向けるそれより格段に柔らかい。
「千年間、キミを殺し続けていたのはその剣なんだろう。どうしてそこまで慈しむ。普通なら腹の虫が治まんねえだろうに」
「武人ならば、一度死合えば互いの力を知る。二度目は互いの信念を知る。三度目は互いの哲学を弁える。千年殺されたともなれば、これに勝る親愛はあるまいて。事実、だからこそ私は再び自由になれたのだから。
腹の虫に関しては・・・・・・そうさな。とりあえず上手いものが食えれば大人しくなるだろうさ」
アホだコイツ。とアルムは思った。博愛にも程がある。
どこが暴虐だよ。と全人類に向けて突っ込みたい。
「さて、貴様は何者ぞ。二度の無礼は無知と許すが、三度目は無いぞ。返答によってはその首刎ねさせてもらおう。
生憎、私は誰の指図も受けるつもりはない。私の力を期待して召喚したのなら他を当たってくれ」
魔王――いやマオが聖剣の切っ先をアルムに向ける。
「オレはアルム。ただの農村のガキだよ。キミが封印されてる本をたまたま手に入れて、たまたまオレの番で封印が解けた。礼儀作法が足りねえのは教養が足りないだけで、つまるところ馬鹿だからゆるしてほしい」
「ふむ。ではアルムよ。何故そなたは私の封印を解いた。よもや魔王と知らなかったと?」
アルムは思わず吹き出しそうになってしまうのを堪える。
もうちょっと対応が柔らかくなっている。
やべえのである。嘘だと思いたい。この魔王様すごく・・・・・・
――チョロい。
「魔王様だってのは一応知ってた。でも」
「でも?」
「可愛い女の子だよって書いてあったから」
「・・・・・・」
カッコつけたアルムに対して、魔王はものすごく神妙な顔で、ともするとちょっと泣きそうな顔で視線を泳がせている。
「・・・・・・えっと、魔王様」
「・・・・・・・のう、おぬし」
「あっ、はい・・・・・・」
「そんなにモテないのか・・・・・・」
「ちいがああぁうううわっ!! 」
アルムは、よりによって千年殺された女の子に憐れまれていた。
思わず大声が出た。
「アッ君どうしたの? エッチな夢でも見た?」「うわっ。窓から入ってくんなババア」「ぬっ。駄目だぞ。いくら魅力的でも母に欲情してはならぬ。メーチェは俺の女だ」「するかッ!!」「ていうか誰この娘かわいーっ!! アッくんの彼女? ちゃんと避妊した?」「何もしてねえわ!!」「大胆ゥ!!」「そういう意味じゃねえ!! こいつはなんというか・・・・・・上手く説明できねえけど今日から俺の妹だッ」「そうか!!」「わかったわッ!!」「わかんのかよ!?」「可愛いからオッケー!!」「素性を気にしいて宿屋が出来るか!!」「しろよそこは!! ていうかマオもなんとか言えよ」
「・・・・・・賑やかな一家よのう」
うむうむ。と満足げに頷くマオ。しかし
「ん? 妹? ん?」
・・・・・・んー?
と大きく首を傾げていた。
「おいさてはてめえポンコツだな。威厳どこ行ったよ」
あーもう!!と叫ぶアルムの大声が、閑静な夜に響く。
星が纏綿と輝く空で、三日月も笑う。
(非モテだけれど)優しい少年と博愛を重んじるかつての魔王。
この出会いをきっかけに、世界の歯車はゆっくりと動き始めていた。