第一話 シルキアの魔女
四方を海に囲まれた大陸アーカシア。
魔族との戦争により地獄となったのは遠い過去の話。
覇権を得たヒトの文明は、それから幾度かの分裂と合併を繰り返し、今は最も歴史ある国であるブリジア王国の下に統一されている。
現国王のラスター王は伝説の勇者の血を継ぐとされている。しかしかつては鋭い眼光で各領地に睨みを聞かせていた王も、老いと病に伏せり力も衰えつつある。
それでもなお彼が敷いた強固な体制は未だ微動だしていない。
王と王妃の間には子供こそ成されなかったものの、領土間の隔たりを無くした教育体制の構築により若く有能な貴族たちが育まれ、国を回してくれている。
北の山岳地帯。常に頂が雪の冠を被る僻地――つまり、かつての魔王城周辺に領を構える魔族達も懸念事項として上げるものもいるが、千年前の敗戦ですっかり気力もなえたのか目立った動きも無い。人の里に下り、慎ましくも穏やかに暮らしている者も多い。中にはヒトとの間に子を為すものさえもおり、一風変わった隣人、というのが大よそ彼らに対する世論である。
魔王城に残ったのは頭がカチコチの化石になったジジババどもで、それを敵視する人間たちもまた要するに似たり寄ったりの同族嫌悪なのだろう。心配事を考えていないと心配に押しつぶされそうになってしまう、臆病な連中は常に一定数居る。それだけのことだ。
そしてこのシルキア村は王都の北に位置する穏やかな農村である。
空はどこまでも青く、干されたシーツはミルクのように白い。
目を細めてしまえばそのまま眠りに落ちてしまいそうで、あてどもなく目を彷徨わせる。
きらきらと輝く水路を覗けば小魚が踊り、肌を撫でる風にはふわふわと潮と花の香りが薫る。
――花と水の都。なんて謳い文句でカッコつけているが、要するに大した取り得のない田舎である。
年に一度の花祭りともなれば人は溢れんばかりとなる街路も、今は小鳥の囀り程度が精々の賑わい。
退屈だと言って村を出て働く若者も多い。必然的に残るのは女性と老人、それから子供の割合が多くなる。
本音を言えば、俺だって外の世界を見てみたいのだ。とアルムは思う。
しかし男手がこれ以上少なくなれば困る人も多い。
ふと見渡すだけでも、軒下で鍛冶屋のじっさまが不用心丸出しでうつらうつらと舟を漕ぎ、ボケの始まりかけた元魔術師のばあさまがにっこりと抜けた歯を見せてくる。そんな村なのである。
ガラクタを直すのが得意なアルムは特に重宝されていたし、小遣い程度とはいえ収入があるのはそれなりにやりがいがあると言えなくもない。
「おうぃ。アル坊ちょいと来ておくれ」
「坊はやめてくれって言ってるだろ。スノウ婆ちゃん。俺ももう18だよ」
スノウのしわくれの顔立ちはいつでも笑っているみたいだった。
実力のほどは知らないが、確かにみてくれだけなら魔女としての威厳はバッチリである。
耳は遠いわ物忘れは激しいわで手間のかかる婆さまではあるけれど、どうにも手を差し伸べたくなる愛嬌がある。
「そうかえ? お父上と比べたら半分くらいの大きさな気がするがの」
「流石にそれよりはデカくなったよ。ていうか親父と比べんな。ありゃ人間じゃねえ。クマだ。そうじゃなきゃ妖怪かなんかだ」
父ユリウスは筋骨隆々のむさ苦しい大男である。元はどっかで傭兵をやっていたらしいが、今はデカい指先で摘まむようにして包丁を握っているのだから世の中よく判らない。というかアレを可愛いと評して結婚した母メイリアのセンスはもっと判らない。
「それに今の時代は力こぶの大きさだけが強さじゃねえ。数の計算に関しちゃ俺の方が要領良いぞ。親父が気の向くままにしてたらとっくに店は潰れてるだろうしな」
アルムの家は「竜骨亭」という酒場を兼ねた宿である。
豪放な父はとにかく飯は吐き気がするまで胃に詰め込むものという哲学があるらしく、放っておいたら皿の上でおかずの積み木が出来上がる。
運ぶ身からしたらそれだけでもたまらないのに、値付けは端的に言って雑の一言。
黒字なんてほとんどないし、最近続く物価の上昇に伴ってむしろ売れば売るほど損が出るような有様。そもそも、汗水流す食い盛りの労働者が多い都市部ならともかく、高齢化の進むシルキアではハッキリいって無駄が多い。
「アル坊は良い子じゃねえ」
「・・・・・・やるべきことをやってるだけさ。味は悪くねえんだからな」
「ホホ。さて、勤勉なアル坊にはプレゼントを与えよう」
そう言って老婆が差し出してきたのは随分と傷んだ本だった。
「いつもありがとう。せんせい」
学の無いアルムに字を教えてくれたのは他でもないこのスノウである。
アルムだけではない。シルキアの子供たちの多くは彼女から勉強を学んだ。
単に人に教えるのが好きなのだとは本人の弁ではあるが、中でもアルムは特に気にられたらしい。
高価な品である本を幾つもどこからか仕入れてきてはアルムに貸し与えてくれる。
「なに。この歳になるとな、人を育てるくらいしかしてやれることが無くなる。この体は摩耗しすぎて魔法ももう殆ど使えぬ。ロクに動くのは口だけじゃが、それももう怪しい。日が立つごとにじわじわと、私の中から何かを消えていくことを感じる。しかし消えたものが何だったのかは思い出せない」
寂しげに、老婆は呟く。
「これはな。買ってきたのではない。この本はわが一族にとっても宝なのじゃよ」
「そんなもの・・・・・・」
「『アルム』に、受け取ってほしい。いずれ私はこの本の価値すら忘れるだろう。私の中から何もかもが抜け落ちて、それは本当に私と言えるのか。ずっと考えていたけど答えは出ない。
だけれど、もし『アルム』がその本と共に私との思い出を持ち続けていてくれるのなら・・・・・・きっとすごく安心できると思うから」
「わかった。わかったよせんせい。だけどそんなことは言わないでくれ。大丈夫さ。たとえどうなったってせんせいはオレのせんせいだ。何も変わらないよ。今まで通りこれからも。さ。
もしヤバそうだったら・・・・・・そうだな。そん時は俺が算数の問題出してやるよ。ない頭でも捻りゃあ大抵の答えは出てくる・・・・・・だろ?」
「ヒッヒッヒ・・・・・・嬉しいねえ。アル坊。あんた本当に・・・・・・私の孫のようだ」
しゃくりあげるように笑う老婆。
――スノウはその翌週、眠るように息を引き取っているのを発見された。
花を詰められた棺。その中に横たわるしわくちゃの笑顔には紅が塗られ、生きていた時よりいっそ元気そうですらあった。