第86話 雨のち涙
キンコンカンコンと陽気なチャイムの音が鳴り響く。
六時間目が終わり、放課後が訪れた教室は賑やかで騒がしい。
そんな明るい雰囲気とは対照的に、外の空気はどんよりと重くなっていた。
灰色の雲が燦々と光り輝く太陽を覆い隠し、地上には暗い影が差す。
「雨、降りそうだな」
教室で窓側の席に座り、朝陽は外を覗き込む。
今にも降り出しそうな雲は、見ているだけで気分が沈んでいく。
それはもちろん天気のせいでもあったが、朝陽の心に深く靄がかかるのは、今まさに学校のどこかで二人きりの生徒が関係していた。
山田龍馬と氷室冬華。
昼休みに約束した二人は、放課後になって教室から姿を消していた。
既に大半の生徒は帰宅するなり部活に行くなりして、教室に残っている生徒は少ない。
はじめは数人の野次馬もいたが、いつの間にか散り散りになっていた。
「お兄さんお兄さん。顔が怖くなってんぞ」
対面に座る千昭に指摘され、朝陽は窓から目を離す。
千昭は苦笑いを浮かべ、その隣に座る日菜美は少し怯えるような表情をしていた。
「朝陽、大丈夫だよ。だから安心、はできないよね……」
珍しく気を遣うような声音の日菜美に、朝陽は強張っていた顔を少しだけ緩める。
友人がなにを心配しているのか、朝陽は十分わかっていた。
それは龍馬本人から聞いていたことだ。
すなわち、龍馬から冬華への告白。
二人がどこかへ行ってから、三十分は経っている。
もう龍馬は告白したのか、冬華はどう返事をしたのか。
仮に二人が付き合うことになった場合、その未来を考えそうになって朝陽は目を瞑った。
想像したくない未来の代わりに、ファミレスで龍馬に言われた言葉を思い出す。
――だから、邪魔しないでね。
それは、冬華に告白すると宣言された後の一言だ。
『なっ……邪魔ってどういうことだよ』
『そのままの意味だよ。僕が告白するまで火神君は動かないでほしい』
龍馬は真摯な目で、朝陽に訴えかけるように言葉を続けた。
『僕は去年から言っていたはずだ。氷室さんが好きだと、火神君をライバルだと……でも、君は動かなかった』
その一言に、朝陽はゴクリと唾を飲み込む。
動かなかった、そう言われて否定できない自分がいた。
冬華が好きだと自覚してから、朝陽なりに好意を伝える努力をした。
それでも関係を進めようと一歩踏み出したのは最近で、気持ちを伝えるには程遠いことも自覚している。
だから、積極的にアピールする龍馬を凄いと思う一方、胸に湧き起こるモヤモヤを抱えていた。
そして、いつかこういう日が来るであろうことも、どこかできっとわかっていた。
『君は人の告白を遮るような奴じゃないだろ?』
『……それはズルいだろ』
『ああ、僕も思うよ。でも、僕からすれば火神君もズルいさ』
そう言って、龍馬はいつもの爽やかな笑みを浮かべる。
しかし、その目に優しさはない。あるのは強い意志を持つ、覚悟を決めた瞳だった。
「おーい、朝陽?」
「……ん」
「本当に大丈夫か? 顔色悪いぞ」
日菜美と千昭の声で、短い回想から目を覚ます。
二人に大丈夫だと伝え、朝陽はもう一度視線を外に向けた。
いつの間にか、透明な窓ガラスには小さな雨粒が、地上を覆う雲はより一層、重く暗く揺らいでいた。
どのくらいの時間が経っただろうか。
教室には朝陽と千昭、日菜美だけが残っている。
朝陽は古い壁時計を見ようとして、スライド式の扉が開くのを視界に収めた。
「……あっ」
短い声が教室に響く。
時同じくして、強く激しい雨が轟音と静寂をもたらす。
「冬華……?」
教室に戻って来た少女の名前を誰よりも先に朝陽が呼んだ。
すぐにその近くに駆け寄り、目線を合わせて問いかける。
「泣いてるのか?」
冬華の目には小さな涙の粒が浮かんでいた。
透明な雫は頬をつたい、静かに床へと滴り落ちる。
どうして、は聞かなかった。
泣いている冬華は見たくない。
その一心で朝陽は、無意識に指先を伸ばす。
すると、冬華は一歩後ろに下がり、自ら涙を拭った。
それは朝陽にしてみれば、明確に距離を取られたようで、いつの日かの氷を思い出すものだった。
「ふゆちゃん、どうしたの!?」
遅れて日菜美が駆け寄ってきて、続けて千昭が近づいてくる。
「……今は一人にしてください」
一言、それだけ言って冬華は自分の席から荷物を手に取った。
それからなにも言うことなく、朝陽たちから背を向ける。
「……また明日」
弱弱しく、頼りない声を残して冬華は逃げるように廊下へと駆けた。
「待ってくれ冬華!」
朝陽は手を伸ばして、足を踏み出し、小さな背中を追いかける。
しかし、その途中で大きな壁が立ちふさがった。
「今はそっとしてあげてほしいかな」
遅れて教室に戻って来た龍馬が朝陽の前に割り込み、その間に冬華の姿が見えなくなる。
「お前が冬華を泣かせたのか?」
「まあ、そうなるね」
「好きだったんじゃねーのかよ」
「好きだから、こういう結果になったんだよ」
意図の掴めない問答に、朝陽は次第に怒りを募らせていった。
冬華を泣かせた龍馬にも、冬華に寄り添えない自分にも。
煮え切らない感情が、朝陽の胸の中で激しく渦巻く。
「少し話をしようか」
そう言って、龍馬はいつもの爽やかな笑みを浮かべた――つもりだったのだろう。
その表情はとても辛そうで、とても悲しそうだった。




