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夢追い

作者: 三角

 佐伯保は、絵を描き続けていた。

 小学生の頃からずっと絵を描いてきて、社会人二年目で挫折するまで、ずっと彼は絵を描いてきた。

 チャンスさえあれば自分にだって。

 そんな自信をいつだって持っていた。

 けれど、社会に出て、自分の小ささを知った。

 もっと早く夢をかなえていれば。

 どうして学生時代にもっと努力できなかったのか。

 そんなことばかり考えるようになった。

 筆を握っても、頭に浮かぶのは、明日の仕事のことだった。

 そうして、佐伯は筆を折った。

 周りにそれをわざわざ伝えたのは、引き留めてほしかったからなのかもしれない。

 けれど、皆は、佐伯が筆を折ることをよく決断したとほめてくれた。

 夢をあきらめた夜、佐伯は泣いた。声をあげ、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして泣いた。

 そんな佐伯は、祝福されながら筆を折った。

 そんなものか。

 佐伯はそう思った。そんなものだったのか、自分の夢は。

 そして、佐伯は笑った。

 現実を見ますと笑った。

 ここで終わりかよ。

 心の奥で、そんな声がした気がしたが、佐伯は無視をした。



 その数年後。

 佐伯は結婚し、何年か後には子どももできた。

 昔画家を目指していたことは、家族皆が知っていた。

 佐伯はそれをよく笑い話にしていた。

「そもそも、画家を目指すきっかけってなんだったの?」

 妻が佐伯に問う。

 きっかけ。何だっただろう。昔から絵を描くのは好きだった。

 けれど、その段階で、将来は絵で生きていきたいと思っただろうか。

 そうだ。佐伯は思い出す。

「高校の美術部にいた先輩が理由かもしれない」

「先輩?」

「ああ。熱い人でね。とにかく絵を描くことに夢中だった。いつも絵のことばかりだった。授業の時も、ノートに絵を描いてるんだって他の先輩が教えてくれたんだ。とにかく絵が大好きで、絵を描くことが自分の生きる証だって本気で言ってた。変な先輩だったよ。けど……」

 佐伯が続けようとした言葉は、親戚の横やりで止まる。

「その人いまどうしてるの?」

「わからない。卒業してからはまったく関りがなくなったから」

「そう。その人、今でもそんなこと言ってるのかしらね」

「どうだろう。でも、たぶん変わっていない気がする」

 先輩の言葉や、夢を語っているときの顔を思い出して、佐伯は笑う。懐かしい。あの頃は楽しかった。

 先輩は卒業する前に言った。

「保。お前が絵を描き続けるなら、いずれまた会うことになる。俺とお前には妙な縁がある。絵を通じての縁だ。また会おう」

 自分はもう絵を描いていない。それなら、もう先輩と会うこともないのかもしれない。そう考えると、佐伯は少しだけ物悲しさを覚えた。

「よかったわね」

 親戚が、しみじみと言う。

「何が?」

「保はその人と違って、現実が見えてる人だったじゃない」

 表情が固まる。佐伯はなんとか笑顔を作り直し。そうだねと返した。



 佐伯はそれから、時々絵を描くようになった。

 仕事の合間に絵を描く。休日も、時々は時間をかけて絵を描いた。

 誰も何も言わなかった。

 昔の夢が趣味になるなんて素敵じゃない。先輩をバカにした親戚が言った。

 佐伯は絵を描きながら、先輩のことを思い出していた。

「保」

 真っすぐにこちらを見つめて、熱く語る先輩の言葉。

「いいか保。上手い絵ってのは確かに素晴らしい。けど、もっと大事なもんがある。いい絵ってのは、ただ上手いだけじゃダメなんだ」

 また始まったと、周りの部員が呆れて笑い出す。

 佐伯は、じゃあ、何が必要なんですか? と訊いた。

「感情だ」

 先輩は真面目に言った。

「感情が乗るようになれば、絵描きの思いは絵を通じて伝わる。それが出来てんなら上等なんだ。あとはスキルを磨けば、最高の絵ができる。スキルは身につくものだが、感情をのせるのは難しい。忘れるなよ保。一番大切なのは、描いてるお前の心の奥にあるもんだ。その心の奥から響く声を聞けるようになれ。それが聞けるようになったら、きっとお前はいい画家になれる」

 なんだそれ。佐伯はその時思った。そして、今こうして絵を描きながら思い出していても、なんだそれと思った。

 けれど、なぜだか涙が止まらなかった。

 あの時。筆を折ると決意し、周りにそれを話した時に、ここで終わりかよと告げた声。

 あれが、心の声だったのだろうか。だったら、聞こえたってことなんじゃないか? だから、続けるべきだった? 自分に問いかける。諦めなければ、夢がかなったとでも?

 涙は流れ続ける。後悔の涙なのか、そうでないのかはわからなかったが、佐伯は泣きながら筆を走らせていた。



 それから一年後。佐伯は一枚の絵を仕上げた。近所の絵画教室主催の展示会のために描いたものだった。

 テーマは家族。無難なテーマだ。

 描いた絵は、それなりに評判が良かった。

 優しい色使いだとか、タッチに温かみがあるだとか、そんな風なほめ方をされる。佐伯はそうした言葉に礼を言ってまわったが、正直、そんなことを狙って描いた絵ではなかった。

 談話用に設けられた一室で、絵画教室の講師に時々教室で絵を教えてくれないかと言われた。佐伯は人に教えるような腕ではないと言ったが、講師はやたらと食い下がる。

「いや、特別講師枠で雇ってる画家の方がいるんですが、その人変人でして。正直迷惑してるんですよ。精神論ばっかりでね。センスを磨く作業だとか、絵画の歴史の中で培われた様々な技巧みたいなことは考えず、まずは描けと。うまくなくてもいいから描いてみろ。心の声を聞けと。それからテクニックを教えるなんて言うんですよ。もう抗議が多くて。でも、その人の教えてる生徒さんがたまたま大きな賞とってしまったんで、強く言い出しにくいんですよね。慕ってる生徒さんもいるし」

 佐伯の胸がざわついた。

「その人、今日はいらっしゃるんですか?」

「え? そのはずですよ」

「すいません。失礼します」

 話を一方的に終え、佐伯は展示会場へと戻った。

 会場は割かし広く、また人も多い。それに、もう帰ったかもしれない。けれど、佐伯は探さずにはいられなかった。

 絵を通じての縁。先輩の言葉を思い出す。

 佐伯は、ある場所へと向かった。

 自分の絵が飾られている場所へ。

 そこに、あの人はいた。

「よう保。老けたな」

 変わらない表情で、先輩は言った。

「先輩の方こそ」

 長らく会っていないのに、佐伯はそれだけで昔に帰れたように思えた。

 先輩は卒業してからも絵を描き続けていた。経済的に危うくなった時もあったが、あきらめなかったのだと話してくれた。

 今は、細々とではあるが、絵で食っていけるようになったという。

「絵、やめたんだな」

 先輩は絵を見たまま言った。

「わかるんですか」

「わかるさ」

「すごいですね」

「どうしてやめた」

 いろいろある。だが、理由を言葉にするのなら。

「現実を知ったから、でしょうか」

「そうか」

「何も言わないんですか?」

「悩んだんだろう」

「はい」

「苦しんだんだろう」

「……はい」

「俺たちの気持ちは、俺たちと同じものを抱えてるやつにしかわからない。だから、俺はわかる。お前は悪くない。お前が出した結論だ」

「………はい」

「泣いてんのか?」

 沈黙が答えだった。

「いい絵だな」

 先輩は言う。

「そんなことないです。久しぶりに筆とったら、全然描けなくなってて」

 涙をぬぐい、佐伯は言った。

「保。絵を描くときに一番必要ものが何かって、学生時代話したよな。覚えてるか?」

「はい」

「この絵には、感情が乗ってる。俺には見える」

 先輩はそこでやっと佐伯の方を見た。嬉しそうに目を細めている。

「腕は衰えたかもしれない。でも、残ってるじゃないかちゃんと。こんな絵が描けるんだ。プロじゃなくても、お前は本物だよ。本物の絵描きだ」

 佐伯と先輩は、並んで絵を見た。

 佐伯の絵は、家族が談笑する風景を描いたものだった。

 絵を見た人が言ったように、優しい色使いや、温かみを意識した。だが、それはある表現を際立たせるためだった。

 家族が座るテーブル。そこにはひとつ空席がある。そこの色合いだけ、あえて暗く物悲し気に描いた。

 その席は、あの時「保は現実が見えている」と言い、先輩をバカにした親戚が座っていた席だ。さすがに家族には気付かれるかもしれないと緊張したが、そもそもこの絵が佐伯の家族を描いたものだということに気が付く人すらいなかった。

 もっとも、バレないように少しずつ特徴を削いでいたのではあるが。

 ささやかな反抗心。そんなものが自分に残っていたことが佐伯には驚きだったが、そんな佐伯の込めた思いを、ずっと会っていなかった先輩は言い当てた。

 そんなものか。

 筆を折ると告げ、誰からも引き留められなかった時に胸に浮かんだ言葉と同じ言葉を、佐伯は心の中で呟く。

 だが、その言葉に込めた思いはだいぶ違う。

 そう。そんなものなのだ。

「俺、やっぱり絵が好きです」

「知ってるよ」

「先輩のやってる授業受けに行ってもいいですか?」

「いいよ」

「ありがとうございます」

 それからは、沈黙だった。心地よい沈黙だ。

 二人は並んで、佐伯が描いた絵をじっと見つめていた。

 佐伯は思う。

 あきらめなければ夢は叶う。

 そんな言葉をいろいろなところで見かける。

 嘘だとは思わない。実際、夢をかなえるために大切なことの一つは、継続だ。

 あきらめず、ひたすらに夢に向かい努力を続けること。

 だが、それが難しい。人生は常に変化していく。そうして環境が変わりはじめると、夢のために割く時間が少なくなる。

 それでもまだ続けられるならいいだろう。だが、大半の人間は、そこでこう言う。「時間が無くそれをすることができない」「お金が必要。稼がないといけない。だから、これに割く時間はなくなってしまう」。言い訳だとは言わない。実際そういうものなのだ。

 思い描くように夢をかなえていく人などほとんどいない。環境が変わり、何者にもなれず過ぎていく時間に焦りがつのる。

 間違っていない。そう。間違っていないのだ。

 しかし、正しくもない。

 じゃあ、夢を叶えるとはなんだ? 何が正解なんだ? 欲望? 自己顕示欲? それもあるだろう。

 だが、本当は夢なんてものは、単なる「何かになりたい」という感情に言葉を与えただけのものだ。

 漠然とした理想。子どもの頃の夢。それらは、ファンタジーのようなものだ。だから、みな大人になれば、リアルへとシフトする。

 火を吐くドラゴンや、正義のヒーローが存在しないと理解するのと同じだ。

 何者にもなれなくていい。君は君なのだ。

 どんな環境でもいいではないか。夢を持っているのなら、この環境の中で叶えていく方法を見つけよう。

 いいことだ。正しいことだ。

 しかし、それは夢ではない。計画だ。

 夢を追う人間は、「何かになりたい」のであって、それ以外の環境はどこであろうと「違う場所」なのだ。

 計画はいらない。それなら何もせずにいていいという許しをくれ。己が何かになれるためだけに生きてもいいと言ってくれ。

 夢追い人はそう言う。

 おかしいだろうか。おかしいだろう。そりゃそうだ。ファンタジーの世界に居座り続ける大人なんて、おかしいに決まっている。

 それでも、夢を捨てきれない。

 それでも、可能性を信じたい。

 それでも、それでも……。

 思い描いた何かになりたい。

 それが、夢追い人の現実だ。

 美しくはない。けれど、醜いわけでもない。

 滑稽だ。

 だが、そういう人間がいる。

 そういう風にしか生きられない人間がいる。

 あきらめなければ夢は叶う。

 その言葉の中には、凄まじいまでの念がこもっているのだ。

 だから、そいつはそれを誇るべきなんだ。

 たとえそれが、世の中からしてみればクソだろうとも。

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