かすみ草の咲く丘で。
昨夜の雨で湿った草を踏みしめながら、一歩一歩丘を登る。草についた細かな水滴が、太陽に反射してキラキラと光る。
この丘の上には、かすみ草が咲いている。爽やかな春風が吹くと、かすみ草がまるで踊っているように揺れる。それはまるで僕を歓迎してくれるかのようだ。
この丘の上は、誰にも邪魔をされない、僕の聖地。
僕ははそこで、本を読むのが好きだ。
本は神聖なものだと思う。本には、書き手の本質が含まれている気がする。人の奥深くにある感情を引き出し、それを他者に伝える架け橋になる。
だから僕は、うわべだけの会話より、本を通して、人と会話することを好んだ。
本に書いてある人物がする行動は、まるで自分がしたかのように感じられるし、主人公が見る景色や、聞くことばは、まるで僕がそこに存在するかのように、すっと僕の中に入ってくる。
背負っていたリュックを地面におろし、中から青いチェックの敷物を取り出す。それを少し湿った地面の上に広げ、その上に座る。
リュックから本を出し、栞の挟んでいるページまでペラペラとめくる。
今読んでいる本は、ドラゴンと戦う、勇者の物語だった。命をかけて、仲間を守る主人公はとても勇敢で、思わずカッコイイと声を出してしまうほどだ。自然と本の世界に引き込まれて、ハラハラする。いつ命を落としてもおかしくないその世界は、僕のいる現実世界とは真反対だ。
本を読んでいると、ふっと現実に戻る事がある。そこには、僕の命を脅かすドラゴンなんていないし、僕は勇者のように周囲から頼られる存在ではない。本の中にの世界と、現実とのギャップに落胆することは多々ある。でも、僕がいる今の世界は、綺麗なかすみ草に囲まれ、ほんのり暖かい風が吹いていて、心地よい。これはこれで良いかもしれない。
僕はふと、今いる僕の世界を、本にしたら、読む人はどう思うのだろうと考えた。とても大変な人生を送っている人が読んだら、この丘の上はとてもいい場所で、僕は幸せな人生を歩んでいると感じるだろう。
本というのは、ことばから成り立っている。ことばはとても強い力を持つ。時に人を殺めるほどに。でも物事の概念を的確に表すには足りない。たとえば、赤色のマフラーということばを聞いた時、想像するものは人によって全く違う。だから、今僕が目の前で見ている景色をそのまま文章にして書き出すことは出来ない。どんなに、語彙力がある人が文章を書いたところで、それは文字でしかなく、それを読み取る人によって誤差が生じる。
でも僕は、それがことばの良さだと思っている。同時に僕が本を好きな理由でもある。同じ本を読んでも、解釈の仕方は、僕と他の人とで違う。だから、僕の解釈は、僕だけのもの。その本を読んで感じた想いも、僕だけのもの。本の世界に入り込んで見る世界も、そこで出会う人物たちも。
僕は再度、本に目を戻す。ドラゴンを倒そうとする勇者は、僕の中では、青い服を着ていて、柄の部分が金色の剣を振りかざし、ドラゴンに向かって走っていく。仲間達も、その後に続く。紫のマントを羽織り、帽子を被った魔法使いの女の子。緑色の服をきて、弓を構えるアーチャー。そしてその後ろに、仲間を回復して援護をする、ピンク色の服を着たヒーラー。僕が想像する勇者達は、昔やったRPGに登場したキャラクターのイメージが反映されている。
勇者達は、ドラゴンの強さに圧倒され、焦りを見せる。それでも勇敢に立ち向かうが、あと一歩というところで瀕死の状態になり、危機が迫る。最後まで勇者らはドラゴンに挑み、ギリギリのところで、ドラゴンを倒す事に成功した。街に戻った勇者達は、街の人々から盛大に感謝され、祝福の一夜を過ごす。
僕は、無事に生還して戻った勇者達にホッとする。そして、本を読み終わってしまったため、パタンと本を閉じる。
次はどんな本を読もうか。僕の楽しみは本だけであった。
僕が唯一、心を落ち着かせることの出来る時間。
だけど時間は過ぎて行く。
夕暮れ時、かすみ草がオレンジ色に変わる。そしてだんだんと辺りは薄暗くなり、かすみ草は灰色にぼやけてくる。
薄暗くなってから真っ暗になるまでの時間はとても短い。暗くなると、この丘は本当に前も後ろも分からなくなってしまう。僕は、敷物を畳み、リュックにしまい込む。急いで、丘を下る。さようなら、僕の聖地。
僕の家に戻る。ドアを開けると、ギィーという鈍い音がする。
「あら、おかえり。ご飯、出来てるわよ。冷めちゃうから早く食べちゃいなさい。」
僕の母親でない人は言った。優しさ溢れる声。この人はいつも僕を気遣ってくれた。僕を本当の子供のように接してくれた。けれどなぜだが、僕は優しいこの人を愛せなかった。
リビングに行くと、温かいシチューが準備されていた。
「いただきます。」
僕は目を瞑り、命を頂くことに感謝してから、シチューに口をつける。シチューは優しさの味がした。
「リリイさん、ご馳走さまでした。」
食べ終わった後、リリイさんの元へ行き、挨拶をする。それは僕の感謝の印で、日課になっている。
その行為を、リリイさんはよく思っていないようだった。本当の子供は、そういった行動をする人はまずいない。だから、自分が本当の母親でないことを突きつけられているような気がするのだろう。でも僕はやめなかった。
「はい。ゆっくり休んでね。」
リリイさんは少し悲しそうな顔をしてから、無理矢理微笑んだ。
僕はもともと母子家庭であった。父親は、母親が妊娠したと発覚してから、何処かへ行方をくらませた。そのまま、母親は僕が6歳になるまで一人で育てた。母親は、リリイさんとは違い、厳しかった。まるで僕を縛り付けるように、普段から監視されている気がした。家にいる時は、安らぎなどなく、息がつまるように苦しかった。
僕は二階の僕の部屋に向かうため、暗い階段を上がる。一段一段上がるたび、ギシギシと音がする。
僕の部屋に入り、ベットに寝転がる。薄暗い部屋。もともとは倉庫部屋だったものを、リリイさんが、「やっぱり、自分の部屋が欲しいとおもうわよね」と言って、僕の部屋にしてくれた。もともとは、蜘蛛の巣とかあったのだれけど、リリイさんが僕の為に綺麗に掃除してくれた。部屋には机とベットくらいしかないのだけれど、とても居心地の良い空間だった。誰も踏み入らない、僕だけの場所。
リリイさんは、僕の母親とは違い、放任するタイプだった。僕が外に行こうと、「行ってらっしゃい」しか言わず、行き先は聞かなかった。僕がリリイさんの事を、母親のように接しないから、リリイさんも、母親がするような子供への束縛をしないのだろうか。
僕はベットの上で寝返りをうつ。
窓から微かに聴こえる虫の鳴き声。静かに夏のハーモニーを奏でている。一階でリリイさんが洗い物をしているのか、食器がガチャガチャとぶつかり合う音がする。
リリイさんは、僕の事を心配するし、優しいけれど、僕の世界に決して入ろうとしない。僕にとっては、それは居心地が良い。それが寂しいかと言われれば、寂しくはない。それは強がりなのだろうか。僕には、それが分からなかった。僕は普通というものが分からないから、普通なら寂しいと思うような状況に置かれているのかも分からない。本当の母親がいる人が僕の立場になったら、寂しいと思うのだろうか。僕は寂しい人間なのだろうか。リリイさんにも、寂しい思いをさせているのだろうか。
リリイさんが食器洗いを終えたのか、シンとなった。
その静けさは、僕は今1人なのだという事を、実感させる。
リリイさんとの関係は、母親というより、家政婦の方が近い。一緒に住んでいて、生活の世話をしてくれる大人。決して"家族"じゃない。
僕は、リリイさんと家族ごっこをしたくない。だって、それはうわべだから。
僕はベットから起き上がり、机の上にある本を手に取る。何度も読み返した本。母親が買ってくれた本。
今でも持っているのは、母親への未練だろうか。
本を開く。本は少し黄ばんでヨレヨレになってしまっていた。薄暗くて、少し読みにくい。
本の内容は、動物達が、動物園でお互いの動物を羨ましがるが、最終的には、自分の良さに気づくという内容だった。
僕の状況に置き換えて考えてみた。
僕は、母親がいる人を羨ましがるが、結局、リリイさんの良さに気づく。
置き換えた内容は、僕の中にしっくり入ってこなかった。
リリイさんは、リリイさんだ。リリイさんは、母親と比べるものじゃない。母親と比べて、良いとか、悪いとかはない。リリイさんは母親になれないし、母親もリリイさんになれない。僕の母親は、唯一の僕の母親だったのだから。
いつのまにか僕は泣いていた。涙が本の上に落ちて、シミになる。リリイさんに聞こえないようにひっそりと僕は泣いた。
僕は夢を見た。リリイさんが、本当の母親である夢。
父親と3人家族で、温かい家庭を築いている。
僕は、リリイさんが用意したご飯について、美味しいというような感想も言わず、ただご黙々とご飯を食べる。
外に出るときには、リリイさんが、どこに行くのか聞いてきて、友達の家だよ、と答える。そうすると、リリイさんは、6時前には戻りなさいよ! と言って見送る。
僕は6時半に家に戻り、リリイさんにガミガミと叱られる。でもその後は、リリイさんが温かいご飯をテーブルに並べ、それをガツガツと食べる。
そこで、僕は目が覚めた。
現実に戻った。
リリイさんが本当の母親だったらこんな感じだったのかな、と考える。僕は今まで、本当の思いを伝えたことがなかった。母親に対して文句を言ったりするように、思った事を口に出すっていう事はしてこなかった。いつも一歩引いたところから、一線を超えないように、発言した。
僕はリリイさんの前で僕を偽っている。本当のことばは言わない。それをリリイさんは知っているだろう。
ことばには力がある。ことばは時に人を傷つける。僕の偽のことばは、リリイさんを傷つけていただろう。それでもリリイさんは優しかった。それが、僕が苦しい原因なのだろうか。
窓からは、優しい光が差し込んできている。鳥のさえずりも聴こえる。おはようと、僕に挨拶してくれているようだ。
いつもは薄暗い僕の部屋も、朝だけは、少し明るくなる。
でも、その明るさとは反して、僕の気持ちは暗かった。
僕は、どうしたらいいのか。
リリイさんは、母親じゃない。
けれど、母親として接しなきゃいけないのか?
僕は悩んだ。
僕は、素直にリリイさんに接することができない。
今日もまた、かすみ草が咲く丘の上に登る。
そこの木も、草も、風も、すべて僕を受け入れてくれる。
僕の為の世界。僕を脅かす存在は全くない。
リリイさんといるのは、息苦しいわけじゃない。でも、居心地が良いわけでもない。そうさせているのは、僕自身であることは分かっている。
でも、リリイさんと僕は、リリイさんと僕でしかない。
母親と僕にはなり得ない。
僕は、リリイさんに、正直に言おうと思った。自分の気持ちを、伝えようとおもった。
直接ではなく、手紙で。
リュックから、ペンと便箋を取り出す。
これは、僕の作る本だ。
本は神聖なものだと思う。本には、書き手の本質が含まれている気がする。人の奥深くにある感情を引き出し、それを他者に伝える架け橋になる。
僕のことばで書くけれど、リリイさんがどう受け取るかは、リリイさん次第だ。
だから僕は、僕の思うままに、書く。
僕は、じっくり悩みながら、一文字一文字丁寧に書き上げた。たった3枚ほどの短い文章だったが、時間がかかり、もうすぐ夕暮れ時になりそうだった。
お腹が空いていた。リリイさんが作るご飯を食べに戻ろう。
3枚の手紙を折り、便箋にいれる。それをリュックにしまい込んだ。
僕のリュックには、僕の思い全てが詰まっているからか、リュックが少し重いように感じる。
薄暗くなった丘を、足元に気をつけながら、下る。
生暖かい風、虫の鳴き声。草の踏む音。全てが心地よい。
明るく、温かい家まで、僕は歩んでいった。