Ⅳ、隠された日記帳-1
「んぬぅ」
「どうしたの、マイディア。奇妙な唸り声をあげて」
本をめくる手を止めて、ぬいぐるみは面をあげた。
「何か変だわ」
アーサの部屋の引き出しから日記帳を発見したまでは良かったのだけれど、とラヴェンは眉尻を下げる。
「変?」
ぬいぐるみはラヴェンをよじ登ると、日記帳を覗き込んだ。食事のメニューから使用人との会話まで右肩あがりに文字が連なっている。几帳面な人だったんだね、と言うと、ラヴェンは頷いた。
「これだけキチンと記してあるのに、好きな人のことは何も書いてないの」
ラヴェンはぽつりと零す。
「なんだか残念。アーサ様がどんな気持ちで彼を想っていたのか、書いてあるのかなあと思ったのだけれど」
「興味があるの?」
聞かれて、日記帳を閉じた。
「不思議には思うわ。目に見えないものなのに、みんな、どうして当たり前に恋を感じて、愛を知っているのかしらって」
「君が言うととても不思議なことのように聞こえてしまうね」
ぬいぐるみは笑う。
「人を好きになる気持ちはポジティブな面だけじゃあないからね。綺麗で可愛らしい名前をつけたいんだよ」
「そういうもの?」
「動物のように欲しがる訳にはいかないじゃないか。人には倫理や法ってものがあるんだからさ」
その言葉で、妙なものを口に入れたような顔をしたラヴェンはややあって渋い顔のまま呟いた。
「…なんだか身も蓋もないわね」
「当たり前だよ。身も蓋もない感情に、無理やり名前をつけてようやく愛だの恋だのになるんだろう?」
立ち上がったぬいぐるみはラヴェンの手を取る。ついと見上げられて言葉が出て来ない。戸惑うラヴェンが映る、ぬいぐるみの瞳が揺れた。
「君が好きだ、ラヴェン。欲しくてたまらない」
「っ」
「その頬を朱に染めたい」
「く、クロード?」
「愛くるしい君の唇にずっとキスをしていたい。出来ることならその先も」
ラヴェンはぬいぐるみの口を押えにかかる。口で喋っている訳じゃないのだが、言葉を飲んだぬいぐるみは肩をすくめてみせた。
「ね? 有体に言うとこうなる訳だ。だけれどこう言ってみるとどうだい」
改まった声をあげて、ちゅ、とラヴェンの人差し指に口づける。
「僕は君に恋をしている」
「~~~っ」
「ふふっ。途端に綺麗で可愛らしい響きになるだろう?」
「もう! クロード!」
両手で押されて、ぬいぐるみはころんと背中から倒れた。
「分かりやすい例えじゃないか」
「そりゃあ分かりやすいけれど…!」
扉がノックされて、ラヴェンは口に蓋をした。顔を出したのがリュウだったことに胸を撫ぜる。
「ラヴェン嬢、夕食の前にシャワーはいかがでしょう?」
「そ、そうさせてもらう!」
そっぽを向いたラヴェンが大股で部屋を出て行くと、足音が遠くなった所でリュウは眉を潜めた。
「…その、ラヴェン嬢のこと、本気なんですか? シャ…」
「ぬいぐるみ伯爵」
「……ぬいぐるみ伯爵」
「当たり前だろう。伊達や酔狂でこんな事をしているとでも?」
後ろ頭をかきながらぬいぐるみは息を吐く。
「彼女が戸惑うのも当然です。伯爵に好意を寄せられるなんて、庶民には荷が重すぎます。貴方に嫁ぎたい令嬢は山ほどいるでしょうに」
「僕がシャルティエ伯だということは、僕自身が一番よく知っているよ」
「そうだとしてもあのような言い方では、返って逆効果なのでは?」
ぬいぐるみは挑戦的な素振りでリュウを一瞥した。愉快気な声をあげる。
「手加減も出来ないくらい追い詰められているのだと察して欲しい所だけれどね。……それにしてもえらく突っかかって来るじゃないか、リュウの坊や」
「そう言う訳ではない…の、ですが」
リュウは言葉を尻すぼみにすると、目じりを抑えた。
「アーサ様も、ぬいぐるみ伯爵と同じような事を言っていたな、と思いまして」
「へぇ。男爵令嬢が?」
――それでもね、リュウ。自分じゃどうしようも出来ないのよ。自分の気持ちなのに、ホント嫌になっちゃう。
窓から吹き込む春風が彼女の髪を撫ぜる。今と同じく扉の前に立つリュウに向かって、幸せそうな顔で微笑んだ。
「アーサ様の言葉は、わたしには何一つ理解出来なかった。だけれどお嬢様が幸せなら、それでいいと思ったんです」
「その台詞は簡単だけれどね。…誰かの幸せを願うというのは、何より難しいことだと僕は思うよ」
ぬいぐるみは胡坐をかく。
「誰かの幸せを願うなら、まずは自分が幸せじゃなくちゃいけないんだよ」
「自分が…幸せ…」
「存外難しいだろう?」
喉の奥で笑うぬいぐるみ。彼は宙を見上げると、まるで独り言のようにつぶやいた。
「どんなに醜い想いでも、愛しい人には綺麗に見える魔法が使えたらいいんだけれどね」
シャワーも美味しい夕食もラヴェンの気をまぎらわしてはくれなかった。
(そりゃあ、恋や愛がどういうものかしらって言ったのはわたしだけれど…あんな意地悪な教え方はないんじゃないかしら)
部屋へ戻っても話題を振る勇気が出ない。結局一人で気まずくなってしまって、ラヴェンは早々とベッドに潜った。
「寝るのかい? ラヴェン」
「ええ」
「おやすみ、マイディア」
「…おやすみなさい」
紙をめくる音が聞こえてくる。
(嫌になっちゃうわ。モヤモヤするのに、こうして聞こえて来る音が心地いいなんて。こんな時まで一緒にいるのが当たり前なんだもの)
単調な音を聞いていると、うつらうつらと眠たくなってきた。瞼が重い。
(アーサ様が彼を思う気持ちを書き残してくれていたら…、このモヤモヤの相談に乗ってくれたかしら。伯爵と庶民だもの。愛とか恋じゃなくて、ふさわしい名前があればいいのだけれど)
ぼんやりとしたまどろみの中、ラヴェンは椅子に座っていた。目の前には日記帳、夢の中だと言うのに触れると冷たい。
(ここは?)
壁一面に掛けられた絵。木目調のティーテーブルに、淡い光が斜めに差し込んでいる。
(アーサ様の部屋ね)
ふと気づくと、男が隣に立って居た。銀色の髪。アイス・ブルーの瞳がラヴェンから書棚へ移り、男は一番上の引出しを開いた。夢の中も変わらない。日記帳が手元にある今、引出しの中は寂しく空っぽだ。
「そこはもう探したわ」
ラヴェンの言葉に小さく笑みを返して、男はペンを手に取る。引き出しの底に引っ掛け持ち上げた。
「え?」
慌てて覗き込む。色違いの日記帳が一冊。ラヴェンが手に取ると、男は瞼を伏せた。
「アーサ」
海よりも深い、バリトンの声。焦がれるように名を呼ぶ彼に口を開きかけた時、
「…ヴェン」
ラヴェンの視界に霞がかかった。意識を引っ張りあげていく。
(ちょっと待って! まだ何も聞いてない…!)
すがりつこうと手を伸ばした。もがいて、もがいて、我に返ったラヴェンの視界にはデンとぬいぐるみの顔が広がっている。拍子抜けしたラヴェンは瞬いた。
「な…っ、ク、クロード」
「分かったんだ、彼女の日記帳はおそらく別にある!」
「へ?」
その反応を寝ぼけていると思ったらしい。ぬいぐるみはよいしょと掛け声をあげると、両手いっぱいに伸ばして日記帳を掲げた。
「見てくれ。決まって朝、昼、夜と一日の出来事を書き記している。お決まりの締めくくりはおやすみなさいだ」
「ほんと」
「例えばこのページ、日記がページの真ん中から始まっているだろう? しかも昼から始まっているんだ。夜がごっそり抜けている所もある。つまり彼女はもう一冊日記帳を持っていて、二つ重ねてはじめて日記になるんだ」
口を半開きにしていたラヴェンが突然起き上がる。ぬいぐるみは日記帳ごと転げ落ちた。
「わたし今、もう一冊の日記帳がある場所を教えて貰ったの」
「教えて貰った?」
「アーサ様の部屋に行きましょう!」
ぬいぐるみの首根っこを掴んで、ラヴェンは客室を飛び出す。
「ラヴェン、室内を走るスピードじゃないよ!」
たしなめる声を遠く聞きながら、ラヴェンは思った。
(やっぱり変な感じだわ。気まずい時もどんな時も、クロードが隣に居るんだもの)
「ラヴェン、何を笑ってるの?」
「いいえ、なんだか色んな事が楽しくなっちゃって」
言いながら、ラヴェンは跳ねるように階段を上っていく。
「クロード、貴方の考えは当たっているの。きっとあの日記帳に書いてあるのよ! 早く確かめにいかなくちゃ!」
ぬいぐるみは呆気にとられたような顔をした。空気が抜けるような声で笑うと、額を抑える。
「……君はとんでもない魔法を使うんだな、マイディア。一生敵わない気がしたよ」
「え? 何か言った? クロード」
「いや、なんでもないよ。早く確かめに行こう、ラヴェン!」