Ⅲ-2
蹲っていると、リュウは広葉樹を見上げた。
「どうして木登りを?」
「…塀を越えられるんじゃないかと思ったの」
「それならば一声お掛け下さい、わたしが試します。……それにしても」
リュウはぬいぐるみを一瞥する。
「シャル…ぬいぐるみ伯がよくお許しになりましたね」
「クロ……ぬ、ぬいぐるみ伯爵は今、自分の身体に戻っているの」
「なるほど」
リュウは幹の出っ張りに足を乗せ、驚く速さで登りはじめた。あっという間に塀と同じ高さまで登り詰める。そうして両手を広げると、バランスを取りながら枝の上を歩きはじめた。
「すごい」
「渡れるみたいですね。旦那様の意向で鳥や虫が住むこの場所には手を入れないようにしていましたが…この木は少々問題ですね。しかしそうすると、黒い花嫁はどこから入って来ているのでしょうか?」
ラヴェンの心臓はひっくり返った。
「うぇ!?」
「彼女が霊なのだとしたら、ハンガリー嬢は木登りなどなさっていないでしょう。脱出口を考えていたのではないですか?」
上手い理由が浮かばない。ラヴェンは素直に頷いた。
(洞察力もあって、実行力も伴っている。わたしよりずーっと探偵向きね)
ふと、リュウの足元に目が向いた。
「そう言えばリュウさん、足の怪我は大丈夫なの?」
「…どうしてそれを?」
「朝アネモネさんに聞いたの」
「アネモネに、ですか?」
「ええ、メイドと庭師が揃って同じ所を怪我するなんて情けないって言っていたけれど…」
一端口をつぐんで、じわじわと後ろめたさが生まれる。疑っていることを知られたくなくて、ラヴェンは早口でまくしたてた。
「だ、誰だって怪我をすることくらいあるわよ。全然気にしなくていいと思うわ! 二人とも早く治ればいいわね!」
「…アーサ様も、この木に登られた事があるんですよ」
「男爵令嬢が?」
「わたしと、アネモネと、エルザと。探し回ってようやく見つけたころには随分上の方まで登っていらして、本当に驚きました。……その後、アーサ様は処女作となる一枚を描かれたのですが、取り乱すわたしたちの顔が絶妙に表現された、嬉しくも悲しくもすばらしい一枚でしたよ」
こころなしか穏やかな声音に聞こえて、ラヴェンは思わず滑り出た。
「リュウさんは、アーサ様が好きなのね」
「え?」
リュウは軽い足取りで地面に足を戻した。
「わたしは元々、リリスの人間ではないのです。御存じですか? ホーン島というのですが」
「リリスよりずっと東にある島よね。伯母に聞いた事があるわ」
「幼い頃、父と母に連れられてリリスに来ました。それから間もなくして父と母と死別し、孤児院に預けられたのです。その時、アーサ様に拾われた」
「拾われた?」
「ええ。リリスの人間にはない黒髪黒目がお気に召した様子で、是非とも仕えて欲しいと。そうしてわたしは孤児院を出て、このお屋敷で雇ってもらう事になったのです」
「…そうだったの」
「アネモネも、エルザも、同じくアーサ様に拾って頂いた身でした」
「立派な方だったのね」
「ええ。ですから、好きという言葉とは少し違うのです。……ただ、わたしは憧れていた。好きなものを好きと言えて、欲しいものに向かって素直に手を広げることが出来るアーサ様に」
「…なんだか分かるわ。わたしもね、小さな頃に両親を亡くして伯父と伯母が育ての親なの」
「そうなのですか」
「ふふっ、なんだか親近感がわくわね。リュウって呼んでもいい?」
「構いませんよ」
「ありがとう」
足元の小石を蹴ると、ころころと転がって木にぶつかる。
「わたしね、小さな頃から不思議な世界がすぐ傍にあったから、それが不思議な世界だって気付くにも時間がかかったの。わたしにとっては現実だったのよ。でもそれが人によっては受け入れがたいものだと学んで、伯父と伯母に引き取られる事が決まった時、これだけは隠し通さなくちゃいけないと子どもながらに思ったわ。…まあ、すぐバレたのだけれど」
思い出すだけで笑えてくる。
「伯母ったら、何で隠していたのって怒るのよ。まるでとっても甘い砂糖菓子を見ているような顔をして、そんな素敵な世界を誰にも喋らないなんてもったいないわ! なんて」
「パワフルな女性ですね」
「でしょう? 伯母はね、旅行が好きなの。だけれどそんな伯母でも行けないような世界にわたしは居るんだから、わたしが貴方のファン一号よって。握ってくれた手は…本当に温かかったわ」
「ハンガリー嬢も羨ましかったですか?」
「ええ。伯母には憧れているの」
リュウはポケットから白いハンカチを取り出した。地面に敷くと、ラヴェンの手を取る。
「お座りになりませんか?」
「ありがとう」
「……素敵な夫妻に引き取られたのですね、ハンガリー嬢は」
リュウも腰をおろすと、そよぐ風が二人の髪を撫ぜた。
「本当に感謝しているの。今こうやって事務所を開いていられるのも伯母のおかげだし」
「ハンガリー嬢はどうして探偵事務所を?」
「ラヴェンで構わないわ。……本当はね、探偵事務所じゃなくてもよかったの。伯母の元から自立して、わたしに見えている世界が役に立つのなら何でも。でも考えてみると、探偵ってニュアンスが一番近いのかしらって。だけどリュウの方がよっぽど探偵向きだと思うわ、わたし」
「わたしがですか?」
「ええ、洞察力も長けているし、実行力だってあるもの。こう言っちゃあなんだけれど庭師なんてもったいないわ。わたしの事務所にスカウトしたいくらいよ! ……歳が二十歳も届かないわたしとぬいぐるみ伯爵じゃ霊能者や魔女と名乗るよりも先に、まず怪しく見えるみたいなのよね」
「それは確かに」
視線を向けると、黒曜石のような瞳と目があった。じっと見つめられると、まるで絡め捕られたよう。身動きとれなくなる。
「ラヴェン嬢」
リュウの瞳が揺れた。形のいい眉を潜めて、唇を解くようにして彼は言う。
「ラヴェン嬢がもっと早く屋敷を訪ねて下さったら、アーサ様はとても喜ばれていたと思います」
――ねぇ、リュウ。
リュウの脳裏に、オレンジ色が映る。溶けるような橙色の夕日を背にして、アーサは震えながら泣いていた。
――あたしだって、皆と何も変わらない。恋をしているだけなのに。どうして、どうしてあたしは…。
「きっと、…救われていたことでしょう」
再びリュウが口を開きかけた時、ぬいぐるみがむくりと身体を起こした。地を蹴って跳び上がると、リュウの後頭部に蹴りを入れる。ぽすっと空気が抜ける音がした。
「クロード!」
「まったく、人が隙をみせたらすぐコレだ! 気をつけてよ、マイディア! 羊な顔して狼だなんて歌にもならないよ!」
虚を突かれたリュウがぬいぐるみを見ている。ラヴェンはもうと憤慨した。
「いきなり蹴りかかるなんて、リュウに失礼だわ!」
「リュウ!? 今君はリュウと言ったのかい!? 一体いつからそんな親しい間柄になったんだ!」
「茶化さないでよ! 貴方が考えているような間柄じゃないことは確かだわ! ね、リュウ!」
ラヴェンとぬいぐるみを交互に見たリュウは首をすくめた。
「え、ええ、まあ」
「まあだって!? それはどっちのまあなんだ! まあ何もなかったのか、まあ何かあったのか! どっちだい、リュウの坊や!」
「だからそんなムキになるような事じゃないって言ってるでしょう!」
ぷんすか地団駄を踏むぬいぐるみ。どこか言い訳がましいラヴェン。間に挟まれたリュウは口に手を添えると、視線を逸らした。
「ふ」
一度笑い出すと止まらない。
「すいません」
くすくす笑うリュウを横眼で見て、ぬいぐるみは鼻を鳴らす。
「君の表情筋はまだ死滅していなかったらしい。良かったじゃないか、リュウの坊や。いやまったく、僕としては不本意だけれどね!」