Ⅲ、ラヴェンと不思議な現実-1
一夜明けて、朝になった。
ヘラが淹れてくれたハーブティはカモミールとラベンダーの香りがして、飲んで三十分もしないうちに寝入ってしまった。頭も冴えたところでラヴェンは椅子に腰かけると、ぬいぐるみをテーブルの上に乗せる。
「あれは確かに人間だったわ」
「霊はキックもバク宙も、ましてや逃げたりなんかはしないだろうからね」
「じゃあやっぱり彼女は…」
アーサ様なのかしらという言う気にはなれなくて、ラヴェンは難しい顔のまま黙りこくった。
「少なくとも彼女が男爵令嬢の関係者だということは間違いない」
そうね、と頷いた所で扉が叩かれる。首を巡らせると、アネモネが顔を覗かせた。
「おはようございます、ハンガリー様。朝食にお時間がかかりそうなのでジュースをお持ちいたしました。はちみつ入りのレモンジュースですよ」
「わあ!」
両手を挙げて喜ぶと、微笑んだアネモネが部屋に入って来る。ひょこひょこと庇うようにして歩く右足首には包帯。ラヴェンの脳裏に昨夜の出来事がよぎった。
「あの、アネモネさん。足首は…」
「それが床に置いていた本を踏んづけてしまって…。片付けておこうと思っていたのにすっかり面倒くさくなってしまったんですよ。やっぱりあの時片付けておけばよかった」
「そう、なんですか」
「リュウも落ちた小鳥を巣に返そうとして木から落ちた時に捻ったそうで。メイドと庭師が同じ所を怪我するなんて、なんだか情けないですわ」
苦笑いを浮かべるアネモネが黒い花嫁に重なって見えて、上の空でしか返事が出来ない。
「ジュースはこちらに置いておきますわね。支度が出来ましたら、また声をかけさせて頂きますわ」
アネモネが足を引き摺りながら出ていくと、ぬいぐるみはまるっこい輪郭をなぞって、へぇ、と愉快気な声を上げた。
「これはまた随分とタイムリーな怪我だね、ラヴェン」
「ホントね」
相槌を打ちつつ、ラヴェンはレモンジュースに口をつける。爽やかで甘酸っぱい味が広がっていくのに、心はずんと重たい。
「男爵令嬢が黒い花嫁だと決めるのは早そうだ」
「そうなったら…今度はアネモネさんを疑わなくちゃいけないんでしょう?」
「こっちを立てればあっちが立たずというところかい? 一番いいのはどちらも疑ってかかることだね、ラヴェン。…まったく、君にかかれば人類皆良い人になりそうで怖いよ」
「そんな言い方ないじゃない」
むっと鼻に皺を寄せたラヴェンに、ぬいぐるみは暴れ馬を宥めるように手を翳した。
「せっかくのレモンジュースだ。気分転換にしなくちゃあもったいないよ、マイディア」
「貴方が意地悪を言うからでしょう」
「君を心配しているからこそ言っているんだよ。ちなみに疑ってかかるべきはアネモネだけじゃない。ラヴェン、リュウもだよ」
朝食はソーセージにスクランブルエッグ。イモを薄く切って塩コショウで炒めたもの。木の実をふんだんに練り込んだパンだった。紅茶にはアップルミントが浮かんでいる。残さず平らげたラヴェンが庭へ出ようとすると、ぬいぐるみは人目につかないところで彼女の腕を引いた。
「ラヴェン、僕は少し自分の身体に戻る事にするよ。そろそろ何か食べないとまずいからね。……なんて顔をしているんだい、マイディア。すぐに戻ってくるから、そんな寂しそうな顔をしないでおくれ」
ぬいぐるみの手がラヴェンの唇を突く。昨日のキスを思い出して真っ赤になったラヴェンは唇を隠した。
「わたしは…! 貴方のことを考えないで、美味しい美味しいと食べていたことが申し訳なかったなあと思っただけよ!」
ぬいぐるみは肩をすくめる。
「なんだ、そんなことか。別に気にしなくていいよ。僕の身体は栄養剤に慣れているうえに、長年食事を取る習慣なんてなかったから、食べることに関してこだわりもなくてね。今だって致し方なくってところだよ」
「クロード。物を美味しく食べられるっていうのはとても素敵なことよ」
「…うん、ラヴェンを見ていたらそう思う。美味しそうに食べている君を見ている時間は有意義だったよ」
ラヴェンは眉を潜めた。こういう時、有体な言葉しか浮かばない自分がもどかしい。
「せっかく身体を取り戻したんだもの。そんな風に言うのは悲しいわ。そうだ! 今度ミネルヴァの街に戻ったら、一緒にご飯を食べましょう! 伯母おすすめのお店があるの。トマトシチューがとっても美味しいのよ」
言うと、クロードは首を横に振る。
「僕は美味しいと言われるものなら食べているよ、ラヴェン。それよりも、もっと家庭的な味を口にしてみたいなあ。例えばラヴェンの手作りとか」
「わ、わたしの手作り!?」
うっかりぬいぐるみを落としそうになってしまった。頭の中で十八番の料理を並べてみるけれど、どれもこれも貴族様に出すようなものではない。
「わたしの料理は家庭料理というより、庶民料理というか」
「望む所だよ! 食卓を囲んで食べるなんて、どんな豪勢な料理にも勝るスパイスだと思うんだ!」
「そうかしら?」
いつも眠そうに垂れ下がっているぬいぐるみの瞳が輝いてみえる。気迫に負けたラヴェンがおっかなびっくり頷くと、彼は感極まったようにラヴェンの頬にキスを落とした。
「お楽しみを作ったところで僕はそろそろ戻るよ。食事の約束、忘れないでね。ラヴェン」
(なんだか上手く乗せられた気がするわ)
ぴたりと動かなくなったぬいぐるみに渋い顔をみせて、ラヴェンは庭に踏み出した。
「日差しが強いわね」
水を撒いたのか、花と草は濡れている。日差しを浴びてしずくが輝いていた。真上から差し込む日差しに手を翳して、ラヴェンは屋敷を振り返る。
(帽子を取りに戻ろうかしら)
結局、面倒くさくて止めてしまった。
まずは昨夜、黒い花嫁が現れた場所に行ってみる。そして今度は記憶を辿りながら、少女が消えた方角へ。塀が近づくと、まるで林のように鬱蒼と生い茂っていた。ちちち、と鳥の鳴き声がする。
(そう言えば、リュウさんが小鳥を助けようとして怪我をしてたって言っていたわね。あとでお見舞いに行こうかしら。アネモネさんに、リュウさん、か)
「……疑いたくなくても、誰かは疑わなくちゃいけないのよね。なんだか探偵って損な職業だわ」
塀が見えて来た。蔦が茂っている。試しに引っ張ってみると、ちょっと体重を乗せただけで千切れてしまいそうだった。
「これを伝ってのぼるのは無理ね」
遠目には門が見える。
(門は厳重だもの。門から出入りするのは無理だわ)
ぐるりと見回すラヴェンの瞳に、塀に寄り添うようにして立っている広葉樹が映った。瞬いたラヴェンは仰ぎ見上げる。
「もしかして、これを登ってる…とか?」
木の根にぬいぐるみを寝かせると、ラヴェンは枝に手をかけた。スカートの裾が引っかかるので、結んでしまう。
「よいしょ、っと」
太めの枝を選びながら登っていくと、ワンピースを着ているラヴェンでもゆうに登ることが出来た。
(あの身のこなしだもの。ウエディングドレスでも、登ろうと思えば登れるはずだわ)
あとは枝を伝って、塀に移ることが出来たら完璧だ。下を見ないようにして、それでも怖いから腹ばいになって進んでいると、
「――ハンガリー嬢?」
呼ばれて、うっかり視線を下げてしまった。思っていたよりずっと高い。
「リュウさ、うわっ」
「危ない!」
身体が傾いて、真っ逆さまに落下を始める。
「ギャー!」
とりあえず何か掴もうともがいていると、リュウが叫んだ。
「構いません! そのまま落ちて来て下さい!」
「えぇぇええぇええ!?」
「っ」
ふわりと抱き留められる。
日に焼けた浅黒い肌。長いまつげ、涼しげな鼻梁。何より宝石のような黒い瞳を間近で見て、ラヴェンは首根っこから真っ赤に染まった。
「ご、ごごごごごめんなさい!」
「いえ、あのタイミングで声を掛けるべきではありませんでした。申し訳ありません」
「そんな、リュウさんは悪くないの、全然ッ!」
「下ろして大丈夫ですか? ハンガリー嬢」
「よろしく…お願いします」
穴があったら入りたい。