Ⅱ、黒い花嫁-1
通されたアーサの部屋は丁度、客室の真上にあった。とにかく広い。三部屋分の間取りを打ち抜いて作られている。部屋の半分は生活スペース。書棚にテーブル、天蓋付きのベッドと家具が並んでいる。一方、部屋の奥はがらんどうとしていて、床に絵具がついたり散らばったりしていた。
「この絵、アーサ様が描いたの?」
「ええ」
壁には一面に絵が飾ってある。独創的なのに、優しさをにじませる絵。ラヴェンが見惚れていると、ぬいぐるみは左端に掛かっている絵を指差した。
「これは君かい? リュウの坊や」
「はい、恥ずかしながら。……アーサ様はとても絵を描くのがお好きな方でした。一度夢中になるとご飯も食べずに部屋に籠られてしまうので、わたしたち使用人は気が気ではありませんでしたが」
「ならこっちは」
「ええ、アネモネです」
こんなタッチの絵をラヴェンは見た事が無い。視線を走らせたラヴェンは、アネモネの隣に掛かっている絵を見上げた。
「この人は? メイド、みたいだけれど」
「エリザといって、この屋敷で消えたメイドの一人です。メイドとしてはまだまだ半人前でしたが、彼女の淹れるお茶も、焼いたスコーンも大好きだと、アーサ様はとても可愛がっていたんですよ」
褪せた金色の髪にそばかす。明るい色の瞳がくるくるしていて、人懐こい笑顔をしている。その隣に掛けられた絵を見たラヴェンは、あ、と声を上げた。
「この人…」
「どうしたんだい、ラヴェン」
男性の肖像画だった。長い銀色の髪を背中に流し、アイス・ブルーの瞳が弧を描いている。
(今にも手が伸びて来て、頭を撫でられそうだわ)
「こんな男がラヴェンに言い寄ったなら、僕は嫉妬で身が焦がれてしまうよ」
「もう、茶化さないでよ」
絵の中の人物は、きっと本当に愛しいものを見ていたに違いない。じゃなきゃこんなに、見ているこっちが苦しくなるほどの笑顔は浮かべられない。
「アーサ様は、御婚約がお決まりになる予定でした」
「え?」
「その事でアーサ様は酷くお心を痛めておられたんです。筆も取らず、何かに追い詰められたように空ばかり見ていた。やがて突然この絵をお描きになったのです。そしてこの絵を描き終えると同時に、アーサ様はわたしたちの前から姿を消した」
「ちょっと待ってくれ。彼女は死んだんじゃないのかい?」
リュウは首を横に振った。
「旦那様は相手方の顔を立てて、アーサ様が亡くなられたと公表された。わたしたち使用人が否定するようなことを言えるはずもありません」
「そんな、酷い」
「生きている証拠があるわけではないのです。ですが、死んでいるという証拠もない。死んだことにするのはあまりだという、わたしとアネモネの意見は取り合っても貰えなかった」
絵画を見るリュウの目が険を帯びる。右に絵画、左にリュウと視線を走らせたぬいぐるみはまさか、と驚きに声を弾ませた。
「君は、アーサ嬢に想い人が居て、この常人離れした美しい男がそうだったと考えているのかい!?」
「分かりません。ですが、だとすれば、だとするのならばなぜ彼は、………アーサ様を救いに現れなかったのでしょうか?」
夜の更け、夕食を頂いたラヴェンは客室へと引き上げた。
逃げたコックの代わりに、今はヘラがコックも務めているそうだ。家庭料理でごめんなさいね、と並べられた食事はカリッカリに焼けたチキンソテーと、レモン・オイルで頂く香味野菜のサラダ。とろりと甘いパンプキンスープにカーリック・トーストが添えられていて、どれもとてもおいしかった。
ベッドに大の字で横になったラヴェンをぬいぐるみは見下ろしている。
「それでラヴェン、これからどうするんだい?」
「そうねえ」
男爵夫人の姿は未だ見ない。元々病弱だった彼女は、アーサが姿を消してからというもの塞ぎこんでしまったらしい。男爵は社交辞令な会話ばかりで夫人のことにも令嬢のことにも触れないし、おしゃべりなヘラは給仕でてんてこ舞いだった。
「とにかく屋敷に現れる幽霊を見なくちゃはじまらないわね」
「それもそうだね。でも、うーん。なぜ花嫁なんだろう」
ぬいぐるみが小首を傾げて、ラヴェンは身を起こした。
「どういうこと?」
「マイディア、君は良く言っているじゃないか。霊というのは、一番思い入れの深い姿で出て来る事が多いと」
「そうね」
「現れる霊が仮にこの屋敷で消えたメイドたちだとするならば…普通、メイドの姿で現れるんじゃないかい?」
「失踪したのが結婚式の直前だったとか?」
「だったらウエディングドレスは白でいい気がするんだ」
「あ、そうか」
「そうやって考えると、生きているにしろ死んでいるにしろ、男爵令嬢という線が一番濃厚になってしまうんだよなあ」
「アーサ様は好きな人がいた。なのに別の人と結婚させられそうになった」
「本当は彼と結婚したかっただろうにね。ああ、祝福されない結婚という意味なのかな」
ううん、とラヴェンは顎を押える。
「それだと、アネモネさんから聞いた話と変わってしまうわ。言ってたじゃない、アーサ様は人を恨むような子じゃないって。わたしもそう思うもの」
ぬいぐるみはきょとんとラヴェンを眺めた。
「そう思うっていったって、ラヴェンは彼女のことを知らないじゃないか」
「そうだけれど…、あの絵見たでしょう? あんな優しい絵を描ける人が、誰かを恨んで化けて出たりなんてしないと思うの」
「………ラヴェン、そういうのは感情論っていうんだよ。ちなみに探偵には不要な論理だと思う」
しみじみ言われた。ラヴェンは羞恥にサッと頬を朱に染めと、口先を尖らせる。
「分かってるわよ! でも、どうしてもアーサ様だとは思えないの」
「ラヴェンはそう信じているんだね?」
「ええ」
「うーん。ならとりあえず、まずはアーサ嬢じゃない線で探ってみようか」
案外あっさり受け入れられて、なんだか面白くない。ラヴェンはふてくされた顔のまま、ぬいぐるみを横眼で睨んだ。
「あらクロード。感情的な理論は探偵に向いていないんでしょう? そんなわたしの言葉を真に受けて大丈夫なのかしら」
ぬいぐるみはしげしげラヴェンを見つめる。両手を口にあてると、小さな身体を揺らして笑った。
「馬鹿だなあ、ラヴェンは。僕は別に探偵に憧れてついてきている訳じゃないんだよ? 君の見ている世界が好きで、君と同じ物をみたくて一緒にいるんだ。君の言うことを信じなくちゃあはじまらないだろう?」
「……貴方って本当に口が上手いのね」
「君を口説き落とすのに必死だと思ってくれよ」
「もう、すぐそういう事を言うんだか――」
劈くような悲鳴が響き渡った。皿が割れる音も聞こえてくる。跳び上がったラヴェンにぬいぐるみがしがみ付き、転がるようにして部屋から出ると、厨房の傍でヘラが立ちすくんでいた。紅茶が零れている。
「ヘラさん!?」
「ハ、ハンガリー様。わたし、お茶をお持ちしようとしておりましたの。で、でもあそこに、人影が見えた気がして…っ、見たら、あ、あの、黒い花嫁が…っ」
「案外早く出て来てくれて助かったわね!」
窓枠を飛び越えたラヴェンが一直線にかけていく背中で、ぬいぐるみは声をひっくり返した。
「ちょ、ラヴェン!? 何か考えがあるのかい!?」
「ない!」
「ないって、そんな簡単に近づいちゃ危ないんじゃ…っ!」
騒ぎを聞きつけた門番も駆けてきてはいるが、巨体なだけに動きが遅い。少女と対峙したラヴェンはまじまじと眺めた。ヴェールを顔にかけ、胸元に刺繍をあしらっている。下に向かっていくにつれ広がっていく裾。真っ黒である事を除けば花嫁そのものだった。
「…違う」
ラヴェンは目を凝らす。凝らせば凝らすほど確信を得たラヴェンは声を張り上げた。
「クロード、間違いないわ。この人霊じゃない! 人間よ!」