Ⅰ-2
メイドに案内されて、ラヴェンはようやく屋敷を見学する余裕が出てきた。吹き抜けの玄関には金で縁どられたシャンデリア。赤い絨毯を敷かれた、まるで物語のお城のような階段。階段を上った先は二つに分かれていて下からは覗き込めない。
「旦那様と奥様のお部屋は二階になります」
肩上でそろった栗色の髪は、絹のように細くなめらかだ。白いカチューシャを留め、簡素なメイド服を身に纏っていながらも花がある。
「こちらがハンガリー様のお部屋になります」
三つ横並びになった部屋の一番奥が、ラヴェンにあてがわれた部屋らしい。入れ違いでシーツを持ったメイドが出て来た。
「あら」
ふくよかなメイドだ。まんまる頬に赤みがさして、目元に皺が刻まれている。
「ようこそピオニー男爵邸へ。わたしはメイド長のヘラと申します。なんなりとお申し付け下さいね」
笑うと、目元の皺が一層深くなった。彼女は丸い目でぱちりと瞬く。
「まあまあ。お客様だと言うからどんな方かと思ったら、随分と可愛らしい方なこと!」
どうやらおしゃべりが好きらしいメイド長。彼女は頬に手を添えると、物憂げな息を吐いた。
「ですけれどね。この屋敷にはあまり長居なさらない方がいいわ」
「メイド長!」
「旦那様はとてもご立派な方ですのよ」
制するメイドに目配せして、それでも言うか言わないか迷った様子だった。しばし口を噤んだヘラは、緩く首を横に振る。
「この子にも…アネモネと言うのだけれど、何度も言い聞かせているのよ。この屋敷は、貴方たちのような若い子には向かないの」
「それはどういう…?」
アネモネと呼ばれたメイドがまつげを震わせる。俯いた彼女の背を撫ぜて、ヘラは瞳を伏せた。
「昔はね、もっとたくさんのメイドが居たんですのよ。旦那様はそれはそれは優秀な地主で…多くの村人が、旦那様に仕えたいとこの門を叩いたものだわ。けれどある時から、メイドが一人二人と行方不明になりはじめて…」
「そうなんですか?」
「ええ。気味悪がって辞めて行く人も多かったんですよ。その上、一年前にアーサ様が亡くなられたものだから」
「アーサ様?」
「一人娘でしたの。アーサ・ピオニー様。お優しくて愛嬌もあって、とっても愛くるしいお嬢様でしたのに。加えて今回の幽霊事件でしょう? 屋敷に残った五人もいつまで続く事やら」
ラヴェンは頭の隅で考えた。門番に老執事。メイド長のヘラに、アネモネ。あと一人いるはずである。
「本当に、早くお帰りになってくださいね」
心配そうな口調で釘を刺して、ヘラは部屋を出ていった。残されたラヴェンとアネモネは黙り込んだまま、弱弱しく微笑んで、アネモネは口を開く。
「怖がらせてしまいましたよね?」
「いいえ。幽霊を調べる為にお邪魔しているんですもの。お話しが聞けて有り難いです」
ぎゅっと眉根を寄せたアネモネは唇を噛んだ。悲しいような、笑っているような笑顔を繕う。
「ハンガリー嬢は、どこかお嬢様に似ておいでですから。メイド長も心配になったのだと思いますわ」
そう言って、アネモネはラヴェンの手を取った。細い指先が震えている。彼女はかしずくように額を寄せると、か細い声を上げた。
「この屋敷に出る幽霊が、お嬢様でない事を証明してください」
「アネモネさ」
「お嬢様は化けて出て来るような方ではないのです。確かに生前、旦那様との間に諍いがございましたわ。お嬢様がそれを苦にしておられたのも事実です。でも、だからと言ってそれをお恨みになるような方じゃありませんの。わたしには…お嬢様が化けて出るなどと言う噂は辛すぎて…!」
ひぅっとしゃくり上げる声が聞こえて、ラヴェンは膝をついた。覗き込むと、泣いている。どうしていいかわからなくて、ラヴェンはぬいぐるみの手を握ると、そっと彼女の涙を拭った。
「任せて下さい、アネモネさん」
――見つけて欲しい。
そう言った彼も、アネモネと同じ、痛みに耐える顔をしていた。
――約束したんだ。彼女がそれを破るとも、死んで逃げるとも、俺には思えない。
「幽霊が、アーサ様でないことを証明します」
アネモネが涙に濡れた面を上げた。立ち上がると、窓の外を指差す。
「あの建物が見えますか?」
鬱蒼と木が生い茂る庭に屋根が覗いていた。
「あの建物が、わたしたち使用人に与えられている住居です。そこに、リュウと言う青年がいます」
「リュウ?」
「リュウほどお嬢様の傍にいた召使はおりません。お嬢様が亡くなられてからは庭師のような事をしておりますが、彼を尋ねてみてください。きっと、わたしたちに知らない事も彼なら知っていると思うんです」
「分かったわ、ありがとう。アネモネ」
「お困りな事があれば何でも申し付けて下さいね」
ちょっと笑って、アネモネはドアに手をかけた。思い出したように振り返る。
「ハンガリー嬢のぬいぐるみ、とても可愛いですわね」
一礼したアネモネが部屋を出ていくと、ぬいぐるみは誇らしげな声を上げた。
「可愛いだって、ラヴェン」
「中に貴方がいなくたって、チャッピーは十分可愛いのよ」
「やきもちを妬いてはくれないのかい?」
「なんでやきもちを妬かなくちゃいけないのよ」
ぬいぐるみはラヴェンの額を押えた。不意を突かれた身体がベッドに倒れ込む。ぬいぐるみは呆気に取られているラヴェンを見下ろすと、その唇にちゅ、と口づけをした。
「確かに、可愛いと言われるよりカッコいいと言われて、やきもちを妬かれたいかなあ」
「…な。何するのよ、クロード!」
「お気に入りのぬいぐるみにキスをするくらい、誰だってあることだろう?」
「チャッピーとキスするのと、貴方とキスをするのじゃ全然違うに決まってるでしょう!?」
「うんうん、確かに。まったくもって君の言う通りだ。これが僕の身体なら、舌を入れる事が出来たからね」
「し、舌ぁ!? この、変態!」
ラヴェンは枕を掴むと投げた。ぬいぐるみは軽い足取りで避ける。
「一番重要なのは、ぬいぐるみのままだとあまりにも絵にならないことだ」
「はあ!?」
「不幸中の幸いは、君がそれでも恥ずかしがってくれたことで…。悲しくは、生身の僕じゃあ近づく事すら許して貰えないだろう、って所かな」
いけしゃあしゃあと言うのが大好きなぬいぐるみでなかったなら、必殺跳び蹴りくらいはお見舞いしている。もて余した怒りに丸太のようにベッドを転がっていると、動く彼女の上に乗っていられなくなったぬいぐるみはベッドに足を下ろした。そうして、何気なく窓の外に目を向ける。
「ラヴェン、ラヴェン」
「…」
「マイディア、ちょっとこっちを見てくれないか?」
「………何よ。そうやっていつも丸め込めると思ったらおおまちが…」
ぬいぐるみを睨んだラヴェンは、窓の外に居る青年と目があって、出掛っていた言葉を飲みこんだ。たっぷりとあいた間が十秒なのか、数十秒なのか。青年はぬいぐるみを示す。
「今そのぬいぐるみ、動いて、喋っていましたよね?」
驚いているとは思えない、抑揚のない声だ。それでも堪えられないでいると、ぬいぐるみは小さな身体を揺らして笑った。
「丁度良かったね、ラヴェン! 彼がリュウ君に違いないよ。訊ねる手間が省けてよかったじゃないか!……ついでに僕がただの愛くるしい人形でない事もバレてしまったようだけれど」
彼が動かず、喋らずいてくれたなら、きっと素晴らしい誤魔化し文句の一つや二つ思いついていたに違いないと考える自分は往生際が悪いのか。
「ええっと、その」
困り果てていると、青年は窓枠に手をかけてひょいと部屋に入って来た。
「このような場所から失礼致します。使用人のリュウと申します」
髪も瞳も、スーツに負けないくらい真っ黒な青年だった。ラヴェンは生まれてこの方、このような髪と瞳の色を見た事がない。うっかり見惚れていた自分に気付いて、ラヴェンは慌てて腰を折った。
「ラヴェン・ハンガリーと申します」
「屋敷に出る、幽霊を暴きにいらっしゃったそうですね。なんでも、クロード・シャルティエ伯のご紹介だとか」
青年の表情は変わらない。淡々と口を動かしながら、乱れたスーツを整え、ネクタイの位置を整えている。そうしてようやく礼をした。
「ええ。それでその、貴方にも話を、と思っていたのだけれど」
リュウの瞳がぬいぐるみを映す。
「…それで、そちらは?」
やっぱり見逃してはくれないわよね。口ごもるラヴェンをよそに、ぬいぐるみは胸に手を当てると、麗しく頭を垂れた。
「お話に上がっている、クロード・シャルティエと申します」