Ⅰ、ラヴェンとぬいぐるみ伯爵-1
「だから嫌だってば」
憮然とした声を上げた少女は腕の中にあるぬいぐるみにふくれ面を見せた。
「そんなペテンみたいなマネ、わたしはしたくないわ」
赤みががった茶色の髪に、アーモンド型をした目を吊り上げる。一方、かかえられているぬいぐるみはひょいと肩をすくめた。
「ペテンなんて、君に似合わない表現はよしてくれ。巷では確か……霊感商法、とか言うんじゃなかったかなあ」
「似たようなものよ!」
「ラヴェンは頭が固いねぇ。だからといって、いつまでも人様の屋敷の玄関前に立ってる訳にもいかないだろう?」
「それは、そうだけれど」
茶色いぼさぼさ毛をした犬のぬいぐるみ。喋りさえしなければとっても素敵なラヴェンの友人は、今日も今日とてラヴェンの腕から勝手に抜け出ると、ぶら下がっている鐘の紐を引いた。
「ちょ、勝手に鳴らさないでよ!」
「いつまでもここに立っていた方がよっぽど怪しいだろう」
すぐさま、ぬおっと小山のような門番が出て来た。
「どのような御用で?」
「あ、あああああのわたし、ピオニー男爵にお会いしたくて…っ」
「旦那さまに?」
値踏みするような視線が、頭のてっぺんからつまさきまでを走っていく。ラヴェンは逃げ腰にならないよう、つつましやかな胸を張った。男爵にお目にかかろうというのだ。帽子には花のコサージュをあしらって、ワンピースは若草色。鞄は今年流行の茶色いチェック柄。ぬかりはない。
「えっと」
だけれど視線が泳ぐ。ぬいぐるみが一足先に鐘を鳴らしたせいで、男爵に会わせてもらう口実を考えそびれたのだ。
「その」
言い淀むラヴェンを怪しげに見つめる門番。視線に耐えかねたラヴェンは、うっかりぬいぐるみが用意した口実を口にしてしまった。
「この場所には女性の霊が彷徨っています! わ、若い女性の霊です! 黒いドレスに身を包んで、顔からヴェールを下げた…その、花嫁、みたいな」
言ったそばから後悔したというのに、みるみるうちに門番の顔から血の気が引いて行く。やがて彼に連れてこられた老執事は、恭しく腰を折った。
「お話は伺いました。旦那さまは只今職務をしておられます。しばしお待たせするかと思いますが、構いませんか?」
「はい!」
二度三度と頷くラヴェン。その手の中でぬいぐるみは勝ち誇ったような声を上げた。
「ほうらラヴェン、だから言っただろう?」
応接間へと通されたラヴェンは広い応接間を見回した。彫刻をあしらった柱に、まるで絵画のような壁紙。ソファなんてあまりに柔らかい。茶色煉瓦の暖炉に視線を向けたとき、ドアが開いた。
「わたしがピオニーだ。小さな貴婦人」
「ラヴェン・ハンガリーと申します。お目にかかれて光栄です、ピオニー男爵」
爬虫類のようにひょろりと細長い男爵は、身体を折るようにして腰かける。
「それで、霊が見えるとの話だが?」
「ええ、その通りです。男爵様」
メイドが紅茶を運んできた。甘くほのかな香りが鼻孔をついて、思わず言葉を忘れて視線を落とすと、彼女はくすりと微笑んだ。
「はちみつ入りでございます」
「は、はちみつですか」
「オーブははちみつの名産地でね。御存じでしたかな?」
「ええ。でもまさかお茶に入れるなんて…」
オーブのはちみつとなれば、かなりの高額で取引されると聞く。腫物に触れるようにカップに手を回すと、男爵は少し笑った。
「それで? 君はどこから来たのかね?」
「ミネルヴァから参りました」
「ミネルヴァ。随分と賑やかな所から来たものだね。ならばこの村は退屈だろう」
「元々は小さな村の出身なんです。どちらかというと身体に合います」
おそるおそる口を浸すと、紅茶の渋みに溶けて濃厚な甘味が広がっていく。ふんわり漂うこの風味が、はちみつなのだろうか。
「こちらではこれが主流な飲み方でね。いまでこそ謳われてはいるが、以前は思うように需要も伸びなくて、それこそ何にでも入れていたものだよ」
「なんというか、紅茶自体が高級食材になったような感じで」
思わず零すと、メイドが笑った。恥ずかしい。
「それでハンガリー嬢、具体的な用件をまだ聞いていないのだが? まさか、物見遊山に鐘を鳴らした訳ではあるまい」
「え、ええ。あの…よければこちらの屋敷に出る幽霊の調査を、わたしにさせて頂けないかと思いまして」
「君がかね?」
「わたしがです」
「いやしかし」
男爵が押し黙る。悩む素振りを見せた彼に、ラヴェンは身を乗り出した。
「わたしの身元がご心配でしたら、ミネルヴァのシャルティエ伯が保障して下さっています!」
「シャルティエ伯? クロード・シャルティエ伯のことかな?」
「はい」
口を開いたまま、男爵は改まった様子でラヴェンを眺めた。今が押し時だ。ラヴェンは鞄から書状を取り出すと、テーブルに置く。
「確かにシャルティエ家の家紋だな」
よほど疑わしいらしい。両面を眺め、陽の光に翳してまで封筒を見ている。
「それにしても、どうして君のような子がシャルティエ伯と? 彼は幼い頃から病がちだと聞くが」
「一度依頼を受けまして。それ以降、懇意にしていただいております」
「ほう」
男爵の瞳が細くなる。これはインパクトがあったに違いない。彼は顎を擦りながら宙を仰ぐと、頷いた。
「伯爵のお墨付きだと言うのなら、君に調査をお願いしてみることにしよう。調査の期間中は我が家に住んでくれて構わない。その代わりと言っては何だが、伯爵によろしくお伝え頂けるかね?」
「もちろんです。必ずお伝え致します」
「ではアネモネ、客室の準備を。わたしはこれで失礼させて頂くが、準備が終わるまで、どうぞゆるりとくつろいでくれたまえ」
男爵とメイドが部屋をあとにすると、ぬいぐるみは顔を持ち上げた。くりくりとした黒目がラヴェンを映す。
「野心の強そうな男だ。あまりよろしくしたくはないな」
「会ってすぐの人をそんな風に言うのは感心しないわ」
「ラヴェンはお人よしが過ぎるんだよ。だから僕みたいなのにもつけこまれる」
小さな頃から可愛がっていた犬のぬいぐるみ。眠たそうな目をしている彼が喋り出したのは、クロード・シャルティエ伯からの依頼を受けてからの事だ。思い返したラヴェンは寂しげなぬいぐるみに頬を寄せた。
「そんな事を言わないでよ、クロード」
ぬいぐるみは背を丸めたまま。悲しそうな声を上げる。
「………これが生身の僕なら言う事ないんだけれどなあ」
「もう、ぬいぐるみだからに決まってるでしょう! 生身の貴方に、こ、こんなことするもんですかっ」
勢いあまってぬいぐるみの頭を叩くのと、応接間の扉が開くのは同時だった。戻って来たメイドはラヴェンに驚いた様子で目を丸くしている。
「どうかなさいました?」
「…虫が」
「あらまあ。注意はしているんですけれど、どうしても花に寄ってくるんですよねぇ」
苦しい言い訳だね。ぽそっと下から声が聞こえて、ラヴェンはぬいぐるみの口を押えた。
「お部屋の準備が出来ましたので、どうぞ」