Ⅱ、悪夢に魅せられた男
お菓子箱のような機関車がコトコトと線路の上を走っていくのを見ながら、ラヴェンは背中を丸めた。
「逃げ出しちゃってごめんなさい、クロード」
「なんてことはないよ、マイディア。君が怪我をするよりずっといい」
頬杖をついているぬいぐるみ。視線に気付いた彼は眠たそうな眼にラヴェンを映すと、小さく首を横に振った。
「本当にラヴェンを責めてる訳じゃないんだ。ただ…」
「ただ?」
「ぼくの身体の使い道を分かっていて乗っ取ったんだとしたら面倒な事になりそうだと思って。……ぼくとしては、ラヴェンの手を握れない方がおおごとなんだけれど」
おどけた声をあげるぬいぐるみ。ラヴェンが押し黙ると、苦笑したぬいぐるみは眉間にあるしわを突いた。両の頬を引っ張り上げられて、ラヴェンは瞬く。
「ねぇ、ラヴェン。彼は本当に神様だと思う?」
「どうひゃほう。……神様を見た事ないから分からないわ。でもなんだかこう、違和感があったの」
「違和感、か。ぼくは違和感ばかりだよ」
「マリアさんのこと?」
「…アイツがぼくに何をさせたいのか分からなくなった」
「婚約者を調べるんじゃないの」
ぬいぐるみは嘆息すると、肩をすくめる。
「たぶんマリアが婚約者だ。だから他の誰でもなく、ぼくを引っ張り出したんだと思う」
「クロードと王子と、マリアさんって…」
「幸せを呼ぶ鳥」
ラヴェンは虚を突かれて、首を傾いだ。
「幸せを呼ぶ鳥…? それって」
「マリアが書いたっていう物語、舞踏会で男の子に会う話なんじゃないかい?」
頷くと、ぬいぐるみはビー玉の瞳を揺らす。
「アランが仮面をかぶった男の子。男の子の正体である、幸せの鳥がぼく。……それはマリアが出席した最後の舞踏会の話だ」
鼻をひくひく動かしたぬいぐるみはぽつりと呟く。
「アランはこの結婚、祝福するつもりかな。それとも…阻むつもりでぼくをよこしたんだろうか」
「どうして?」
「レティ公は外交を担っていてね。諜報機関と呼ばれる、彼独自の調査機関も持っていたほどだ。内通者となればまず疑われると分かっていただろう彼が、自分の失脚を止められなかったのは不可解だ、とぼくとアランは考えている」
「………………諜報部隊?」
「犯人が他にいるとするなら、ウィリアム候の子息とマリアの結婚はますますキナ臭いってことになる。何か裏が……ラヴェン、ラヴェン、通り過ぎてるよ」
呆と空を見て歩いていたラヴェンは袖を引かれる。立ち止ると、コート診療所とかけられた立て看板にぬいぐるみはぶるぶる身体を震わせた。
「…ぼくは未だに、ここが診療所と名乗っている事に疑問を覚える」
「――ラヴェン嬢?」
「リュウ! 丁度いい所に」
シーツを取り込んでいたリュウは頭を下げた。相変わらずびた一文の愛想笑いもない元執事を見て、ぬいぐるみは胸を撫ぜる。
「表情筋が死んでいる君に、安心感を覚える日が来るとは思わなかったよ」
「どうかなさいましたか?」
「ちょっと大変な事が起きちゃって」
「モルテはいるかい? …百万歩くらい譲ってトートでもいいけれど」
「モルテとは、ここに入っている少年ですか?」
「そうそう、少年の振りした陰気くさーい奴だよ」
リュウは中に首を巡らせた。
「彼なら今朝から見当たりませんが、トート女医なら奥に」
突如ばびゅんと煙をあげて建物から飛び出て来た影がぬいぐるみを奪い取る。ぬいぐるみは頬ずりされていることに気づくと、断末魔を上げた。
「止めろ! ぼくにラヴェン以外の匂いが移るだろう!?」
「またいつにもなく死にかけの良い匂いがしますことっ! 今日あたりベッドが空きますの。そろそろ入られませんこと? クロード様」
「死ぬとしても君みたいなうっかり死神にあずかられるのは御免だ!」
「おほほほほ。そのうっかり死神がクロード様の魂を回収し間違ったおかげで呪いも解けたのでしょうに。お礼に魂下さいませよぅ」
「ラヴェン、助けて! ラヴェェエエェエエエンッ!」
まるで今生の別れみたく手を伸ばしてくるぬいぐるみ。掴むかそのままにしておくか悩んでいると、ラヴェンを見るなり女は面白くなさそうな顔をした。
「相変わらず死にそうにありませんのね、貴方は」
「あはは、ごめんね。トート」
「まあ貴方の魂は先輩の物ですから、死のうと死にまいとどうでもいいのですけれど…」
言いながら、ピッシリと切りそろえられた前髪の下にある眉根を浮かす。
「それで? 先輩に御用と聞こえましたが先輩は今手が離せませんの。貴方みたいなのに構っている暇はありませんわ」
ラヴェンは苦笑いを零した。ぬいぐるみに目配せすると、しぶじぶといった態で彼は声を上げる。
「トート、モルテはどこに?」
「あぁんクロード様! 夕べから危篤の患者がいて、先輩は付き添ってますのよ。話くらいなら聞けると思いますけれど」
「じゃあ案内してくれるかい」
「喜んでー!」
くるりと踵を巡らせて、一つにひっ詰められた後ろ髪がご機嫌に揺れる。ラヴェンが後ろをついて歩き出すと、リュウは声を潜めた。
「ラヴェン嬢、わたしもご一緒してよろしいですか?」
「でもリュウ、仕事はいいの?」
「あらかた終わっております。お役に立てる事があれば」
「助かるわ」
言うと、ラヴェンはリュウに耳打ちする。
「帰るころ、クロードを取り返すのを手伝って」
辛気臭い病室にはベッドがひとつ、椅子がひとつ。ベッドに横たわっている老人を眺めていた少年は、濃い隈が彩る目を細くした。
「また死にかけているのか、クロード」
「…生憎とすこぶる元気だよ。身体を奪われたくらいでね」
「陣はどうした」
「壊されたんじゃないかい」
喉を鳴らして笑った少年はくるりと振り返る。
「へぇ、そいつは愉快だな。ちょっとやそっとじゃあれは壊れないはずなんだが」
「ぼくの身体を動かしている奴は自分が神だと言っているよ」
「神?」
げっそりやせ細っているのに目だけが大きい。土色の肌で笑って、輪郭をなぞるように顎をこすった。
「それで俺様たちの所に来たってか、俺たちは神は神でも死神だぜ。交渉したけりゃまず死ね」
「モルテ、その男はラヴェンを危険視してるんだ。事務所の居場所も知られているかもしれない」
モルテと呼ばれた少年はつまらなそうに鼻を鳴らす。
「それで説得できると思ってンならお門違いだぜクロォド。暇じゃないんだよ」
「死ぬまでは暇だろ」
「うちは死人優先だからな。今はお前よりこっちだ」
ラヴェンはトートの影から顔を出した。モルテからベッドに視線を移すと、訝しげな顔をする。
「その人、何に魅入られてるの?」
「……ナイトメア」
「ナイトメア?」
「夢魔の事ですわ、クロード様。…死にかけているのを拾って来たまでは良かったのですけれど、名前も出身も言わないまま危篤に」
「それでも離れねぇんだ。食っても食い尽くせないくらいの、悪夢みたいな人生だったんだろうよ」
「あたくしたちは死ぬまで手出しができませんの。……せめて、死んだらすぐに回収してさしあげようと思っているのですけれど」
病室に入ったラヴェンはベッドに歩み寄った。覗き込むと、首を傾げる。
「この人…」
「どうしたんだい、ラヴェン」
「ねぇモルテ」
おもむろに呼ばれてモルテは鼻に皺を寄せた。
「…ンだよ」
「夢魔を切り離して、この人に安らかな死を迎えてあげさせる事が出来たら……。貸し一つって事で、手を貸してくれない?」
「……」
「死んでからの交渉なら受け付けてくれるって、貴方さっきいったもの」
「……俺たち相手に言葉遊びの交渉が上手くなるのは危険だっつったよな? いつか上げ足とられるぜ、ラヴェン」
「なるべくモルテ以外にはしていないわ。でも貴方が手を貸してくれないなら、他を当たらなきゃいけなくなるかもしれないわね」
「…」
「……」
「………わぁったよ」
後ろ頭をかいて、モルテは首を横に振った。
「で? どうやって切り離すんだ?」
「夢に入って直接切り離すの」
「入るっつったって、名前もわかんねぇ男だぞ」
「名前と職業なら知ってるわ、オフィサーって人だと思う」
「知り合いなのか?」
「小さい頃に一度、伯父を訪ねて来た事があるの。クロードにレティ公爵の話を聞いて思い出していた時だったからちょうどよかったわ。諜報部隊の人なんじゃあないかしら」
「諜報部隊だって!?」
飛び出そうとしたぬいぐるみをトートは必至に追って抱きとめた。
「諜報部隊に所属していた人間の素性は王ですら知らなかったって話だよ!? どうしてラヴェンが…!」
「聞き覚えがあるなあと思ったら、伯母から聞いたんだわ。伯父とのなれ初めで聞いたんだと思うの、伯母が旅行していた先で、潜入していた伯父に会ったんだって」
「ラヴェンの!? 伯父が!? 諜報部隊!?」
「ええ…確か、なんとかって呼ばれてたのよね。えっと、ファレルよう…、なんだったかしら」
「傭兵殺しのファレル?」
「そう! 物騒な名前だなあと思った記憶があるもの」
「……ラヴェン」
ぬいぐるみは綿の詰まった頭を抱えると、低い声をあげた。
「ぼくは身体を取り戻したらまず鍛えるから、プロポーズはそれまで待って欲しい」
「プロ!?」
「いやむしろ、騎士団長に復帰してからの方がいいかもしれない。……ファレル・ウィンチェスターは行方不明になった、国の英雄だよ」