Ⅰ、ぬいぐるみ伯爵と神様伯爵
呼吸の仕方を忘れて立ち尽くしていると、見かねた様子でぬいぐるみはラヴェンの頬を突いた。
「酷い顔色だ。大丈夫かい、ラヴェン」
「だ、だだだだ。大丈夫……のはずがないじゃない。王子に謁見だなんて、普通は一生ないんだから」
だだっ広い部屋に敷かれた赤いカーペット。高座には煌びやかな椅子が一脚あるだけなのに、酷く肩身が狭い。
「謁見だなんて気負う必要はないよ。頼みがあると言うからこっちはわざわざ出向いてやってるんだ」
「クロード、本当に自分の身体じゃなくて良かったの?」
「ぼくの身体で城に来たら、アランに会う所じゃなくなるよ。まあそれはそれでラッキーかもしれないけれど」
ぬいぐるみは溜息をひとつ。
「…アイツが内々に会いたいなんてロクな事じゃないに決まってる」
恨めしそうな目をむけられて、ラヴェンは面を食らったような顔をした。
「数居る王子の中でも、次期王はアラン王子だと聞いたわ。なんでも幼い頃、度胸試しで用意された闘牛が王子を前にして逃げ出したとか」
「…」
「……クロード?」
「その牛はぼくだよ、ラヴェン」
「へ?」
「………あの弱虫王子、出来レースだっていうのに怖いと泣いて手がつけられなくなってね。間違っても牛が王子を突かないよう、ぼくが牛に憑いたんだ」
「クロードが、牛に憑いたの?」
「鳥に憑いて空を飛ばされた事もある。……この話は止めよう、マイディア。思い出しただけで気分が悪い」
「それは……貴族様も大変なのね」
笑いそうになった唇を引き締めて、難しい顔を繕う。
「アラン王子を王に据えるべしというお告げがあったとも聞いたけど?」
「…その手の噂は大抵アランが故意に広めたものだ。あいつは王になるためならなんだってするからね」
「さすが親友、良く分かってンじゃねぇか」
思わず背筋をピンと張ったラヴェンの手の内で、ぬいぐるみはげんなりした声を上げた。
「君の親友だけはごめんだよ、アル」
赤い髪を後ろに撫でつけた王子は人相が悪い。眉間に深い縦皺、一文字に結ばれた唇。クロードと歳が変わらないと聞いていたが十は上に見える。
(……式典で見た時は爽やかな王子様に見えたけれど…こうしてみると、随分印象が違うのね)
見た目だけでいうのなら、王子と言うよりは魔王。剣呑な瞳に睨まれてラヴェンは息を呑んだ。
「ああああの。は、初めまして、わたし…!」
「ラヴェン・ハンガリーだろ」
「本日はお逢い出来てとても光栄でッ」
「堅苦しい挨拶はなしでいいぜ。俺の愛する半分人間が世話になってるそうだな、ラヴェン」
笑うと皺が出来て、途端に人好きする顔になる。目を疑っている間に仏頂面へ戻ったアランは椅子に腰かけると、ぬいぐるみを横目で見た。
「おい、ココ。ウィリアム候の倅が婚約する話、知ってるな?」
「爵位を持たない娘と結婚するって話だろう? あの出世欲にまみれたジジィが良く許したじゃないか」
「キナ臭い事この上ないだろ。お前たちにその娘を調べて欲しい」
「……情報収集は君の方が得意だろう」
「いや、な。その娘、巷で流行りの新興宗教に随分惚れ込んでいるらしくてな」
ぬいぐるみはアランを一瞥する。
「ふぅん。レティ公の後釜にいよいよウィリアム候を据える話があるって聞いたけど?」
「ジジィたちはこぞって神経質になってやがるよ。貴族が異教徒の娘を嫁に取るなんざ過去にねェ事だからな、反対声明を上げる事で頭がいっぱいだ。それにしてもいよいよ奥の中枢に居座ろうって時に、あのウィリアム侯にしては足りてねぇと思わねェか?」
「賭け事が好きそうにも見えないしね」
「聞きかじった所によるとその宗教、なかなか眉唾モンでな。なんでも今日、卸すそうだぜ」
「卸す?」
「神様だよ。か、み、さ、ま」
「神様?」
怪訝な声をあげたぬいぐるみに、アランは軽い口調で笑った。
「ついでにいっちょお前、挨拶してこいよ。親友が王になれるよう、どうぞおひとつよろしくお願い申し上げますってな」
「神卸し、か」
ラヴェンは住所が記されたメモ用紙から顔を持ち上げた。くしゃりと丸めてポケットにしまうと、指先を擦り合わせる。
「神様ってどんな風なのかしら」
「何を持って神様とするのか、興味があるようでないけれど…噂の方たちは随分浮かれてるみたいだね」
賑やかな音楽が漏れ聞こえてくる先は教会だ。色紙で作られた花々に彩られたアーチを見て、ラヴェンはぽつりとたずねる。
「ねぇクロード、その…奥さんになる人が思うような人じゃなかったら、アラン王子はどうするつもりなのかしら」
「その顔はもしかして酷い話だと思ってる? マイディア」
頷くと、ぬいぐるみは笑った。
「だよねぇ。ぼくも小さい頃、そう思ったことがある」
「え?」
「さっき、レティ家って名前が出て来たろう? …レティ家って言うのは、昔シャルティエ家と対で実権を握っていた公爵家なんだ。ぼくはこんな身体だったから話したことはないけれど、その家にはぼくたちと同じ年頃の女の子が居てね」
ぬいぐるみは葉が付きはじめたばかりの木を見上げ、眠たそうな目を細める。
「だけれどぼくたちが五つくらいのころ、爵位をはく奪されたレティ公はミネルヴァを追われた」
「爵位をはく奪? どうして…」
「敵国と内通の疑をかけられてね。大した証拠は見つからないまま追及されて…あの時のマリア・レティは本当にかわいそうだったよ」
遠くを見ていた目をラヴェン戻して、ぬいぐるみは肩をすくめる。
「だけれどそれは当然と言えば当然なんだ。王は国を守らなきゃならない。何万人の民を守る為にたった一人の犠牲を選べばなくちゃいけないんだ。……でもあの馬鹿王子は逆でね、たった一人の為に、何万人の国民が幸せになれる国を作ろうとしているんだよ」
「たった一人の、ため」
ぬいぐるみは頷いた。
「うん。……まあ、そんな綺麗事が通じるんだったら苦労はないんだろうけれど、そんな馬鹿が作る国を…ぼくはちょっと見てみたい気はしている」
口ぶりの割に重いため息で締めくくったぬいぐるみは、アーチをくぐって協会に入ると口を噤んだ。歌っている人、踊っている人、誰に話しかけていいか分からない。迷っていると、噴水の淵で本を読んでいた女性がパッと顔を輝かせる。
「初めて見る子ね、こんにちわ」
「賑やかでつい。勝手に入って大丈夫でしたか?」
「もちろん! 貴方とてもラッキーよ。今日はね、神様が御出でになるの」
「かみさまですか?」
「ええ、神様!」
ゆるやかにウェーブのかかった鳶色の髪を耳にかけて、女性は声を弾ませた。曇りのない目をどう受け止めていいのかが分からない。その手に握られた本を目に映したラヴェンはあっと声を上げた。
「その本! もしかして、王子も魔女も幸せを呼ぶ鳥、ですか?」
「そうよ。知ってくれているの?」
「街でとっても流行ってるんです。わたしも大好きで」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ」
にこやかに手を差し伸べられて、ラヴェンは瞬く。
「私はマリア・レティ。一生懸命書いた話を大好きだって言ってくれてありがとう。貴方は?」
びくりと動いたぬいぐるみを、ラヴェンは思わず跳ねて誤魔化した。しずしずと手を伸ばす。
「…ラ、ラヴェン・ハンガリーです」
「ラヴェンちゃんね。せっかくいらしたんですもの、神様にお逢いになって帰って欲しいわ! あ、お昼は食べた?」
「いえ、まだです」
「じゃあ何か取ってきてあげる。ここに座って待ってて」
「え、あの、お金…!」
「今日は神様が御出でになる祝いの日だもの、お金なんて野暮なことは言わないで、好きなだけ食べて帰ってね」
人ごみにマリアの背中が見えなくなると、ぬいぐるみはわなわなと震えだした。
「アイツ、マリアいることを知っていてぼくを寄越したな」
「どういう事、クロード。マリア・レティってさっきクロードが言っていた人よね?」
「間違いない、彼女はマリアだ。まさかマリアがウィリアムの子息と?」
ぬいぐるみの独り言を聞かれないよう目配せしていると、思わぬものが目に飛び込んで来たラヴェンは動きを止める。ひときわ高く楽器が鳴って、人々が歓喜にうごめいた。
「神様!」
「神様が現れたぞ!」
「なんとお美しい!!」
泣き崩れて、発狂している人もいる。傍目から見ると異様な空気の中、それどころじゃないラヴェンはぬいぐるみの腕を引っ張った。
「ね、クロード」
「アイツ、ぼくに何をさせようっていうんだ?」
「クロードったら!」
「ああごめん、どうしたの、マイディア」
ラヴェンの指が示す先。人々の中心で崇められている青年を見たぬいぐるみは、目をこすった。
「………え?」
はちみつ色の髪に碧い瞳。世にも美しい青年が喝采に笑みを返している。ぬいぐるみは身を乗り出すと、ラヴェンと顔を見合わせた。
「何でクロードがいるの!?」
「何でぼくの身体が動いているんだ!?」